2月24日、衆院第2議員会館で「今こそ国によるヘイトクライム対策の実現を求める院内集会」が開かれ、昨年8月放火事件が起きた京都の在日コリアン集住地区ウトロ出身の弁護士、具良ト(ク・リャンオク)さんが発言しました。以下はその発言を文字起こししたものです。聞き取り間違い、聞き取り漏れが多々あると思いますが、ご容赦を。
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私は弁護士ではあるが、本日はウトロ出身者として、またヘイトの事件に関わりながら、経験してきた思い等を述べたい。
私は19xx年にウトロで生まれ、育った。物心ついた頃からニンニクやトウガラシが干してあるウトロの景色を見て育った。ウトロの子どもたちと毎日、日が暮れるまで遊んだ。どこからか七輪で焼き肉をする匂いにつられてそのそばを通ると、「きょうは焼き肉だよ、食べていきな」と呼ばれたり、またある時は「塩貸して」とお隣さんがやって来たりした。
大雨の降った日は大変だった。ウトロにだけ洪水が起こった。すぐにみな外に出てきて「大丈夫か」と互いに声をかけ合って、雨水の汲みだしを助け合ったりした。晴れの日でもウトロは下水の臭いがした。洪水も下水の臭いも自前の脆弱なインフラのためであったことを私は後に知ることとなった。
歴史的な痛みを背負ってきたウトロの人びとは子育ても暮らしも仕事も軒を連ねて共に助け合って暮らしていた。ウトロから一歩出れば、日本社会からは「貧しい危ない場所」「近づいてはいけない場所」と敬遠されていたウトロだったが、実際は家に鍵をかけなくてよいほど安全なコミュニティでもあった。ウトロは朝鮮学校教師として忙しかった両親に代わって私たち兄弟を育ててくれた温かいコミュニティだった。
私が小学校1年生に上がる頃、ウトロ土地裁判が始まった。私は成長するにつれ、どうやらウトロから出ていけという裁判を起こされているということを理解するようになった。ふと疑問が起こった。私たちはなぜ訴えられなければならないのか、つまり被告なのかという疑問だった。戦争と植民地支配の被害者として原告であるべきなのに、何か悪いことをしたのか。当時、委任状にハンコをもらいに来たウトロの住民側弁護士に私は幼い疑問を託した。
私が高校3年生の頃、ウトロ土地裁判で住民敗訴が確定した。多くのウトロ住民はその前にすでにウトロを去って別の場所に引っ越した後だった。私たち家族もその中にいた。ウトロ土地裁判は私に弁護士になる動機を与えた。
私は小学校から高校まで京都の朝鮮学校に通った。朝鮮半島情勢が緊迫したりネガティブな報道が続くたびに、朝鮮学校生徒への暴言や暴力事件、女子生徒の制服チマ・チョゴリがカッターナイフで切りつけられるといった事件が起こった。中学3年生の時、通学路で電車に乗ろうとした私は後ろから「朝鮮人のくせに先乗んな」と言われ、髪の毛を引っ張られたことがあった。その他にも、通学中に「帰れ」「何で日本にいんの」といった言葉を投げかけられたり舌打ちをされたりといったことがあった。
私はこれらの出来事をほんの数年前まで誰にも言うことがなかった。「私はたまたま運が悪かったのだ」「こんなことは取るに足りないものなのだから」と心に蓋をするようになっていた。朝鮮学校に通いながら受けた差別は弁護士になるという動機を一層強くした。私を突き動かしたのは、なぜ在日コリアンはこのように生きていくしかないのか、きっと何かがおかしい、素朴な疑問だった。
2009年、私はそれまでの夢であった弁護士になった。気分も晴れやかで、毎日わくわくした気分だった。しかし、弁護士登録をしたその月に在特会らによる京都朝鮮第一初級学校襲撃事件が起こった。運命のいたずらか、襲撃されたこの学校は私の母校だった。私は保護者から1通のメールを受け取り、事件を知ることとなった。心臓がバクバクした。とっさにそのメールに記載してあったリンクを押し、あわてて動画を再生した。
見慣れた校舎、見慣れた先生たちの姿とともに、大音量で漏れ出る怒号。すぐに私は再生をやめた。とてつもないことが起こってしまったと直感した。私はその日、両親が寝静まった後、深夜そっと一人パソコンを開き、先ほどのリンクを押して再生した。「開けんかい、こら」。校門を開けるように彼らの一人が叫んだ。「ここは学校ですからね」。これが唯一学校側が発した言葉だ。覆いかぶせるように怒号が続いた。「朝鮮学校、こんなものは学校ではない」「スパイ養成機関」「ろくでなしの朝鮮学校、日本から叩き出せ」「出ていけ」「何が子どもじゃ」。彼らは拡声器を使って耳をつんざくような大声で怒鳴り続けた。駆けつけた警察官は彼らを逮捕することはおろか傍観するだけだった。
すると彼らはますますエスカレートした。学校が設置したスピーカーの線を切断したり、朝礼台を移動して校門にぶつけたりし始めた。事件が起こったのは2009年12月4日午後1時。当時校舎の中では小学校1年生から6年生の子どもたちが給食を食べたり他校と交流会をしていた最中だった。子どもたちは恐怖と不安に怯え、泣き出す子もいた。
私はこの時、この動画を何度も再生しては止め、再生しては止めを繰り返しながら、最後まで見た。手は震え、徐々に涙で視界は曇った。それでも私は音声ボリュームを上げ、彼らが何を言っているのか必死で聞き取ろうとした。「人ではない」「学校ではない」「帰れ」。こういった言葉は、思い返せば私がそれまでにも浴びてきた言葉でもあった。大人になろうと弁護士になろうと、どれだけ努力をしようと私は結局ここから逃れられない。私は両手で顔を覆ってむせび泣いた。
夢だった弁護士になった途端、また過去の自分に引き戻されたようだった。「ウトロから出ていけ」と言われ、「朝鮮学校も出ていけ」と言われ、チマ・チョゴリを着ると暴力を受けたり「帰れ」と言われる。そのたびに「運が悪かった」「たまたまだった」、そのように自分に言い聞かせようとしてきた。しかし、在特会による母校の襲撃は、私の過去の経験が「たまたま」でも「運が悪かった」のでもなく、自分はこのような攻撃や差別を受ける存在であり、そこから一生逃れられないという現実を確信させるに十分なものだった。
私はそれまで、ウトロ出身であること、朝鮮学校出身であることをできるだけ隠そうとしていた。日本社会ではどこか恥ずかしいことだと感じるようになっていた。ウトロも朝鮮学校も私にとってはかけがえのないふるさとだけれど、それが大切なものであればあるほど日本社会の反応に直面するのが怖いというふうになった。情けないことに私は「もう関わりたくない」「逃げたい」という徒労感のほうが強かったのだ。
一方で、当時校舎にいた子どもたちのことを考えると、いたたまれない気持ちになった。泣き出したりおねしょをしたり、「朝鮮人って悪い言葉なの」「私たちは何か悪いことをしたの」と疑問を親に投げかける子もいた。まさに私が幼い頃から抱いていた疑問でもあった。いつになったらここから自由になれるのか、私はいてもたってもいられず、弁護団に加わることにした。
私たちは警察・行政への支援要請、告訴、民事仮処分などさまざまな手段を準備してきた。しかし、行政や警察は被害者に対して決して協力的な態度ではなかった。結局、在特会らによるヘイト街宣は3度学校前で行われ、その様子を収録した動画はネットで世界中に拡散された。3度目は裁判所の街宣禁止仮処分命令を無視して行われたものだった。被害当事者は自分たちには人権もないと絶望した。
警察は犯罪行為を目の当たりにしても傍観するのみ。検察も告訴状受理を拒み、在特会らは仮処分命令を無視する。残すは民事訴訟の提起があった。ところが、民事裁判は時間がかかる上に主張立証のために被害の痛みを繰り返し思い出さなければならず、当事者に大変な苦痛を強いるものだった。さらに、在日コリアンに対する差別事案について日本の裁判所が正しく判断するのか、といった司法への不信もあった。私自身も、ウトロ土地裁判でウトロ住民敗訴を言い渡した日本の裁判所への個人的な不信があった。
また、幼い頃を振り返ってみると、学校の前にあった児童公園も学校が運動場として使ってきたことが気にかかっていた。後の裁判の中で、地元自治体・京都市・学校との合意に基づいて公園を使っていたことが明らかとなった。しかし私は、在特会がこの公園を「学校から取り返す」「ただす」と叫んでいるのを聞き、なぜ公園を使ったのだろう、公園さえ使わなければ、と自分を責める気持ちになっていたのも事実だ。在特会はウトロにもやって来て「不法占拠」と叫ぶヘイト街宣を行っていた。公園さえ使わなければ。ウトロにさえ住まわなければ。
その時、弁護団のうちの一人が発した言葉で私はふと我に返った。「具さん、これは公園の話じゃない。差別の話なんだよ」。私は頭が打たれたようだった。私はそれまで受けてきた理不尽すぎる差別と攻撃の中でいつしか自分の中にその原因があると考えようとしていたことに気づいた。そしてそのような考えは突き詰めていけば、在日コリアンとして生まれなければ、という考えにつながっていく危険でもあるのだ。「そうだ、私が悪いのではない。これは許されない差別との闘いなんだ」。そう気づかされた瞬間だった。
ヘイト京都事件では当事者が「これ以上理不尽な差別を許すことはできない」と涙の中で立ち上がり、2010年6月、京都地裁に民事訴訟を提起した。私たちの主張の柱は二つだった。ヘイトクライムであること。民族教育権の侵害であること。約5年の裁判闘争の末、勝訴した。私はウトロ裁判で住民敗訴を言い渡した京都地裁・大阪高裁・最高裁がヘイト京都事件ではいずれも勝訴を言い渡したことに、弁護士としても当事者的な立場としてもようやく一筋の光を見るような感覚になった。
判決文のうち、「在特会らの活動が在日朝鮮人という民族的出身に基づく排除であって、在日朝鮮人の平等の立場の人権および基本的自由の享有を妨げる目的を有する」というくだりに私たちは涙が止まらなかった。ここまで本当に長かった。けれど少しずつ変わっていける。そう思えた瞬間だった。
しかし、そう思うのもつかの間、この1件の勝訴をもってしては食い止められないくらいヘイトのパワーは増大していった。レイシストによる攻撃はその後、朝鮮学校だけではなくコリアタウン、ヘイトに共闘する日本人支援者や弁護士にまで広がり、今や在日外国人との交流のための市民施設、韓国民団、韓国学校、ウトロという一見成り立ちの背景が異なる対象さえもがヘイトクライムの標的となっている。被害者は朝鮮半島出身者、その一点だけが共通している。そして加害の態様も、過激な罵詈雑言から直接の脅迫や有形力の行使、さらには火を放つという抹殺を意図する象徴的行為に及び、激しさを増している。私たちは生きていてはいけない存在なのだろうか。
2016年6月、ウトロを訪問した。いよいよ建物の取り壊しが始まると聞き、最後にウトロの原風景をこの目に焼き付けたかったからだ。裁判では負けたけれど、世界中の市民の良心の結集により何とか都市計画の中で「ウトロ平和祈念館」が残る。公営住宅にウトロ住民も入居することができる。最悪の事態は免れることができたのだと自身を納得させようとした。
その後、再度ウトロを訪ねてみると、私たちの住んでいた家は跡形もなく消えていた。私がいなくなったようだった。ヘイト京都事件では勝訴こそしたが、京都第一初級学校は廃校となり、すでに取り壊された。私がいなくなったようだった。
そして今回、ウトロが放火された。放火犯はたくさんの看板を燃やした。看板はウトロの生きた歴史だ。私はあの看板がウトロのどこにかかっていたかさえ記憶している。ウトロ裁判が始まった頃、陸上自衛隊大久保駐屯地との境界にかかった看板「ウトロエソサラワッコ、ウトロエソチュグニダ(ウトロで生きてきてウトロで死ぬのだ)」というウトロ・コミュニティに対する切実な思い、裁判の中盤に差しかかった時に出てきた「オモニの歌」「ウトロに愛を」、そして世界市民の良心に勇気を得て掲げられた世界人権宣言の看板、それから国連特別報告者ドゥドゥ・ディエン氏訪問に前後して掲げられたイラスト看板。国内での敗訴確定にもかかわらず、国連社会権規約委員会は日本政府に対し、ウトロ住民のコミュニティを壊してはならないと勧告した。ドゥドゥ・ディエン報告者は「植民地時代、日本国の戦争遂行のために労働に駆り出されてこの土地に住まわされた事実に照らし、またそこに住むことを60年間認められてきたことを考慮し、日本政府はウトロに住み続ける権利を認める措置をとるべきだ」とした。
国内で届かなかったウトロ住民の痛みが国際社会に届いたのだ。ウトロ・コミュニティにパワーを与えた。「強制退去断固反対、死んでも退かない」と訴え続けた看板は国際社会との連帯メッセージを伴うようになった。地球規模での連帯を訴える看板はその証しだった。私は放火によりそれら看板が焼失したと聞き、私の体が燃やされたようだった。看板はウトロ住民がそこに生き、闘った証しなのだ。何とか守ってきた歴史資料さえ灰となった。
今回この院内集会で発言することになった。私たちの声は届くのだろうか。さまざまな感情がよぎり、眠れなくなった。放火事件が起こってからというもの、明け方に突然ウトロのことを考えながら目が覚め、気づけば涙が頬を伝っていた。ウトロでの楽しい記憶とともに、変わっていったウトロの様子、隠していた自分、そして家がなくなった様子、最後に放火により燃えることで頭がいっぱいになった。
また、ある時はふと夜中に目が覚めて、京都朝鮮学校襲撃事件のことを考える。初めは友人らと校舎で遊んでいた記憶、次に在特会が叫んだ暴言、そして勝訴こそしたものの廃校となった学校跡地に思いが及び、眠れなくなることがある。
私たちが何か悪いことをしたのか、なぜいつも私たちなのか。私はヘイト京都事件の勝訴にしがみついていた。しかし、それさえも揺らいでいる。当事者が苦しく大変な思いをして何とか提訴し、ようやく勝ちとった一つのともしびさえ、それよりもとてつもなく大きな強いパワーによって押し潰されそうになっていると感じる。その大きなパワーとはヘイトだ。私たちを人間扱いしないものだ。官民問わずだ。ウトロと京都第一初級学校という二つのふるさとがなくなった。なくなっただけでは足りず、燃やされ灰とされてしまった。次は一体何がなくなるのだろう。
私にはウトロ放火事件が被疑者だけの問題には思えない。氷山の一角だ。これまでにも在日コリアン生徒に向けた暴力事件はじめ多くのヘイトクライムが起こってきたが、きちんと社会問題として認知されてはこなかった。起こるべくして起こった社会的背景をもった犯罪だと感じる。放火犯にもまして怖いのは社会の無反応、権力側の沈黙だ。
2017年にヘイトのことを研究しようとアメリカに留学した。滞在中にバージニア州シャーロッツビルにおけるヘイトクライム事件が発生した。事件後すぐに州知事・市長が激しく非難する抗議声明を、大統領も非難声明を発表した。市民社会は怒りをあらわにした。私は日本との違いに愕然とした。
また私は、ヘイト京都事件や在日コリアンへの差別問題についてニューヨーク大学ロースクール等で講演をした。世界金融とビジネスの中心地で私の話に涙を流し、悲しみ、または怒り、激しい反応があったことに衝撃を受けた。国際人権を学ぶために渡ったイギリスでも、日本のヘイトについての私の話に日本のそれとは比較にならないほどの激しい反応があった。在日コリアンが感じてきた痛みと苦しみは取るに足りないものではなかったのだ。私はそれまでの傷が癒されるようだった。
もちろん日本でもヘイトに対処するための様々な動きがあることは確かだ。しかし今の日本の状況では、社会の沈黙・権力の沈黙によりヘイトの勢いに歯止めが利かなくなる。私たちはおよそ100年近い間、3世代4世代5世代にわたってこの国に住み続け、日本人と同等の義務と責任を負ってきた。のみならず、一層強い管理と監視の対象に置かれてきた。遠い外国で起こった人権侵害について国際協力に乗り出す日本が、なぜ最も身近にいる、国内にいる在日コリアンへの人権侵害にはだんまりを決め込むのだろうか。私たちの痛みは取るに足りないものなのだろうか。
お願いがある。私自身の決意でもある。ヘイト犯罪と同時に、いやそれ以上にそのような卑劣な行為に反対する強いパワーがあるのだということを、ウトロ住民にそして在日コリアンに知らせてください。一番怖いのは社会の、そして権力の無反応だ。どうかみなさん、それぞれの立ち位置と場所でこの問題に関心を持っていただきたい。ヘイトクライムの被害実態に目を向け、ヘイトを許さないという強いメッセージを日本社会で享有し、この問題に対処する抜本的な一歩を踏み出すきっかけになることを願う。
−ここまで−

リモートで発言する具良トさん
(編集部 浅井健治)