2020年01月15日

「日韓ユース平和参加団in済州」帰国

1月10日から13日まで韓国・済州(チェジュ)島を訪れていた「日韓ユース平和参加団in済州」の若者たちが帰国しました。滞在中のその活動は、以下のフェイスブック投稿でつぶさに知ることができます。

https://www.facebook.com/pg/ZENKOofficial/posts/
https://www.facebook.com/wakana.yamauchi.75

私は、まだ見ぬ済州の風景と人びとに想像をめぐらせつつ、それらにじかに触れることのできるユース参加団の面々をうらやましく思いながら、済州島四・三事件を題材にした金石範(キム・ソクポム)『火山島』を読み進めています。

第4巻にこんなくだりがありました(239ページ)。朝鮮半島“本土”から済州がどう見られているか、済州と“本土”とはどういう位置関係にあるかを、主人公の一人、李芳根(イ・バングン)の胸の内に託してこう記しています。(文中、「西北=ソブク」とは大虐殺の主犯格だった「西北青年団」を指す)

−引用ここから−

…少年の頃、本土で、済州島ってどこにあるんだい、ボールを蹴ったらすぐ海へ落っこって蹴球なんかできないんだろうとからかわれたことがある。いま済州島で横暴を極めている「西北」たちの口癖の一つに、“イワシも魚か、済州野郎(チェジュセッキ)も人間か”というのがある。往昔から中央政府に見放された“地痩民貧(チスミンビン)”の虐げられた民の土地、かつて適客(チョクガク、政治犯)たちが険しい水陸の道を艱難辛苦の果てに幾月間も要してソウルから辿り着いた流配の土地。呪われた天刑の地であって、本土人からの蔑視と差別の積み重なった土地である。そしていまはゲリラ蜂起をしている“革命の地”、いや、“暴徒”による反乱の地なのだ。
 ソウルに移住している者の多くが、本籍を済州島から本土に変えておのれの故郷の土地にさよならをし、そして流麗なソウル弁を身につけて(李芳根はそれに吐気を催すのだが)変身する。済州島が本籍では“立身出世”に大きな障害物になるのだ……。…

−引用ここまで−

ユース参加団も「済州4・3平和公園」を訪れ、虐殺現場をいくつか回ったようです。四・三事件が日本の朝鮮植民地支配と深く関わっていた事実を示す場面は『火山島』でも繰り返し描かれています。日本と韓国の若者たちがその歴史から何をくみ取ったのか、それを現在の日韓“つながり直し”への努力にどう結びつけていこうと考えたか、感想と報告を直接聞くのがとても待ち遠しいです。

(編集部 浅井健治)
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2020年01月04日

金石範『火山島』第1〜3巻読了しました

済州島四・三事件を題材にした金石範(キム・ソクポム)『火山島』全7巻のうち1983年に出版された第I〜III巻。刊行当時に購入し、書棚の奥に“積読”状態でしたが、12月半ばから読み始め、先ほどようやく読み終えました。圧倒的な読後感で、何からどう語っていいかわかりません。

それに、96〜97年に出た第IV〜VII巻は買いそびれていて、図書館で予約・取り寄せ中です。全篇通読しないでレビューを書くというのは、いかにも不誠実のそしりを免れません。

とりあえずここには本の帯のキャッチコピーを記すにとどめます。

〜八万の人が虐殺された済州島四・三事件を背景に描く若き革命家たちの苦難と決意/ふるさとの島でおきた惨劇をみつめる長編小説 全三巻 ついに完成〜

同じく帯に書かれた金石範の言葉と作中私の一番印象に残った登場人物のセリフを以下、転記しておきます。

《済州島のこと〜「四・三事件」の惨劇に思う 金石範》−ここから−

私は済州島をテーマにしていくつかの作品を書いてきた。私が済州島を書く理由の中でもっとも重いものは、やはり自分がその血塗られたふるさとの島の、涙も乾きはてた人間たちの中の一人だということにあるだろう。文学が人間の存在、全体という限りない幾層もの状況と係わり合ってゆく中での「人間」を追うものとすれば、私はそれを済州島という具体に触れ、その状況とかみ合わせながら作業をつづけようと思う。そしてそれがまたあらゆるものをその中に押し包もうとする闇の力と、それを暴(あば)こうとするものとのたたかいの中の一条の光にもなればと願うのだ。(「朝日新聞」1971年5月10日より) −金石範ここまで−

《作中、銀行やバス会社を経営する実業家の息子で、学生時代に逮捕されたり西大門(ソデムン)刑務所に入ったりしたことがあるものの現在は無為徒食の生活を送る李芳根(イ・バングン)の妹、李有媛(イ・ユウオン=ソウルの女子専門学校音楽科に在学中)が四・三の翌日、兄に向かって語る言葉から》−ここから−

「……このあいだ、漢拏山(ハルラサン)の麓の山村や海辺のY里へ行ってきたでしょう。そこで、私たちの生活とは全然ちがう村の人たちの生活もかいま見ましたね……。ゆうべ、島の人たちが、そう、山や海の村で見たその人たちがゲリラになって立ち上ったのが、私、すごくショックで、心をどこへ置いたらいいか分からないくらいに不安で、私が二つに割れてしまいそうだったの。(中略)私はこのごろ、いったい、私たちのこの満ち足りた生活は何なのかと考えてるの。祖国が二つに永久に分裂しようとしているときに、多くの人々が犠牲になったり、飢えたりしているときに、私たちの何不足のない裕福な生活は何だろうって……(中略)」
(中略)
「私は、私たちの生活が決して正義でないのを知っているの」 彼女は兄をまともに見つめて続けた。「オッパだって、私だって社会的には寄生的な生活をしてるんだわ、うちの家族全体が……。そのくせ、なにか打倒対象にでもなって、それで私たちの生活が破壊されそうで怯えてるってわけ。分かるの、私が怯えているのはそこから来ているのが分かるんです……」 (『火山島』III 220ページ) −李有媛ここまで−

私には彼女のこの言葉は、敗戦国民でありながら、植民地支配が朝鮮半島に残した混乱の責任をとることもなく、着々と自分の生活だけは立て直し、すぐ後には朝鮮戦争特需で濡れ手に粟の復興を成し遂げたわれわれ〈日本人〉に対しても向けられているような気がします。

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(編集部 浅井健治)


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2019年12月13日

ケン・ローチ『家族を想うとき』2度も涙してしまいました

ケン・ローチ監督『家族を想うとき』、予定通り公開初日に見てきました。涙もろくなっているのは自覚するところですが、途中2度もこみ上げる涙を抑えきれなくなる映画はめったにありません。私の左隣の女性は後半3分の1は終始すすり上げていましたし、一人置いて右隣の席からは嗚咽といってもいい声がとめどなく聞かれました。間違いなくケン・ローチの最高傑作といっていいと思います。
https://longride.jp/kazoku/

原題は『Sorry We Missed You』。宅配便の不在票の用語で、日本語に意訳すると「荷物をお届けに参りましたが、ご不在でした」となるでしょうか。映画では2回、この言葉が大きく映し出されます−最初は不在票そのものとして、2度目は別の用途で。この英語、別のシチュエーション、別の文脈で使われれば、「あなたが(orきみが、おまえたちがetc)いなくてさびしい」とか「あなたと(orきみと、おまえたちとetc)一緒にいられなくてごめんね」といったニュアンスになるのかもしれません。2度目の不在票は、そのように解釈することもできます(準ネタバレ、失礼)。

原題の持つ含意・暗喩の巧みさにはほど遠い邦題『家族を想うとき』から思い出すのは、「家族」の語をタイトルに含む一連の山田洋次作品です−すばり『家族』(1970年)をはじめ『東京家族』(2013年)、『家族はつらいよ』3部作(2016〜18年)など。私は山田洋次の映画をこよなく愛する者で、『男はつらいよ』シリーズの中期以降の作品は封切直後に、初期の作品もTV録画・DVD等で、ほとんどすべて見ています。寅さん最新作も封切日に見る予定です。

とはいえ、ケン・ローチ映画を見てしまうと、山田洋次の家族の描き方にはどこか現実離れした甘さ、浅さを感じざるを得ません。意図してそのように描くのが山田洋次の山田洋次たるゆえんなのでしょうが、資本と労働の対立、グローバル資本主義による酷薄な社会破壊、人間の尊厳の蹂躪に正面から向き合わなければ、“昔はよかった”のノスタルジアに終わってしまいます。

カタルシスかエンパワーメントか、(ブレイディみかこが近著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』で用いた対語を拝借すれば)シンパシーかエンパシーか、の違いとも言えるでしょう。

それにしても、サッチャー以降の新自由主義、規制緩和、緊縮、労働者いじめの非情さをこれほどものの見事に活写した映画が作られる国で、なぜ保守党が勝つのか。不思議でなりません。しかし、もう少し詳しい出口調査の結果を待ちましょう。若い世代の間に社会主義への共感が広がっていることが必ずや明らかになるはずです。

(編集部 浅井健治)
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2019年11月13日

ファシスト民兵組織指導者の大富豪率いるボリビアのクーデター

『グレーゾーン』という独立ニュースウェブサイトが、ボリビアのクーデターの背景をよく伝えてくれる記事を掲載しています。以下はその拙訳です。

原文は:
https://thegrayzone.com/2019/11/11/bolivia-coup-fascist-foreign-support-fernando-camacho/

−ここから−

外国の支援のもと、キリスト教ファシスト民兵組織指導者の大富豪に率いられたボリビアのクーデター

ボリビアのクーデター指導者ルイス・フェルナンド・カマチョは、サンタクルス県(米国が分離主義をけしかけてきた地域)のファシスト運動から生まれた極右の億万長者だ。カマチョは、ブラジルとコロンビア、そしてベネズエラの野党から支持を得ようと努めてきた。

マックス・ブルーメンタール、ベン・ノートン記

エボ・モラレス大統領の突然の辞任(11月10日)の数時間後、ルイス・フェルナンド・カマチョがボリビアの放棄された大統領官邸に押し寄せ、退陣させられた社会主義・先住民指導者が推し進めてきた多民族精神をまさに敵に回すこの国の一側面を世界に明るみに出した。

聖書を片手に、国旗をもう片方の手に、カマチョは大統領の紋章上で頭を下げて祈り、国の先住民の遺産を政府から追放し、「燃えた宮殿に神を戻す」という誓いを果たした。

「パチャママは二度と宮殿に戻らない」とカマチョはアンデスの母なる大地の精神に言及して語った。「ボリビアはキリストのものだ」

[写真]クーデター後、大統領宮殿で聖書を持つボリビアの極右野党指導者ルイス・フェルナンド・カマチョ

ボリビアの過激右翼野党はその日、同国の軍指導部による辞任要求を受けて、左派のエボ・モラレス大統領を倒した。

民主的選挙で選ばれたことがなく国外ではほとんど知られていないカマチョが、空隙に入り込んだ。彼はパナマ文書にも名前がある有力な億万長者であり、人種差別暴力で悪名高いファシスト民兵組織に育てられた超保守的キリスト教原理主義者であり、ボリビアの裕福な分離主義地域サンタクルス県に拠点を置いている。

カマチョは、ボリビアの埋蔵量豊富な天然ガスから長い間利益を上げてきた企業エリート家庭の出身だ。彼の家族は、モラレスがその広範な社会プログラム(貧困を42%、極度の貧困を60%削減した)に資金を投入するため国の資源を国有化したとき、富の一部を失った。

クーデターの準備として、カマチョはモラレスを不安定化させる計画について議論するため、南米の右派政権の指導者たちと会った。反乱の2か月前、彼は感謝の気持ちをツイート。「コロンビア、ありがとう! ベネズエラ、ありがとう!」と叫び、フアン・グアイドのクーデター作戦に謝意を表した。彼はまた、ジャイル・ボルソナロの極右政権を評価し、「ありがとう、ブラジル!」と宣言した。

カマチョは、ウニオン・フベニル・クルセニスタ(サンタクルス青年連合)と呼ばれるあからさまなファシスト分離主義組織を長年にわたって率いてきた。『グレーゾーン』は、同連合が自身のソーシャルメディアアカウントに投稿したプロモーション歴史ドキュメンタリーから次の場面を編集している。
https://twitter.com/i/status/1194133424975613952

カマチョとその極右勢力がクーデターの背後の実力組織を担う一方、彼らの政治組織は利益を得るのを待った。

10月の選挙でボリビアの野党が大統領候補に立てたカルロス・メサは、ワシントンとの広範な結びつきを持つ「企業寄り」民営化推進者だ。ウィキリークスが公表した米国政府の通信記録は、彼がモラレスを不安定化させる目的で定期的にアメリカの当局者とやり取りしていたことを明らかにしている。

メサは現在、米国政府のソフトパワー部門USAID(米国国際開発庁)やいくつかの巨大石油企業、ラテンアメリカで活動するたくさんの多国籍企業から資金を提供されたワシントンにベースを置くシンクタンク、インターアメリカン・ダイアログの専門家としてリストされている。

エボ・モラレスは元農民で、社会運動で著名になり、有力な草の根政党である社会主義運動(MAS=Movimiento al Socialismo)のリーダーとなった。ボリビア初の先住民族の指導者だった。同国の大きな先住民および農民コミュニティで多大な人気があり、13年間にわたって多くの選挙と民主的国民投票で、しばしば地すべり的な勝利を収めた。

10月20日、モラレスは60万票以上を得て第1回投票で野党大統領候補メサを破るのに必要な票差10%をわずかに上回り、再選を勝ちとった。

ボリビアの公的に入手可能な投票データの統計分析を行った専門家は、何らごまかしや不正行為の証拠を発見しなかった。しかし、野党は“違う”と主張し、数週間抗議と暴動で街頭に繰り出した。

モラレスの辞任を引き起こした出来事は、議論の余地なく暴力的であった。右翼野党ギャングらは、与党の左派MAS党から当選した多くの政治家を攻撃した。さらに、彼らはモラレス大統領の家を荒らし回り、他の高官数人の家を焼き払った。何人かの政治家は家族を誘拐され、辞任するまで人質にとられた。ある社会主義者の女性市長は暴徒に公然と拷問された。

モラレスの辞任強制に続いて、クーデター指導者は政府の選挙管理委員会の委員長と副委員長を逮捕し、委員会の他の職員を辞職に追い込んだ。カマチョの信奉者は、ボリビアの先住民とモラレスの多民族主義のビジョンを象徴するウィファラ(アンデス地方の先住民の旗)を燃やし始めた。

ラテンアメリカの右翼反共諸国の同盟として冷戦中に米国によって設立された親米組織、米州機構(OAS)はボリビアのクーデターにお墨付きを与える手助けをした。OASは証拠を示すことなく10月20日の投票には多くの不正があったと主張し、新たな選挙を求めた。その後、モラレスが軍によって打倒され、彼の党の役員らが攻撃されて暴力的に辞任を余儀なくされても、OASは沈黙したままだった。

次の日、ドナルド・トランプのホワイトハウスはクーデターを「民主主義のための重要な瞬間」であり、「ベネズエラとニカラグアの非合法政権に対する強力なシグナル」であると言いふらして、熱狂的に称賛した。

暗がりから現れ、暴力的な極右反乱を導く

カルロス・メサが野党の暴力をこわごわと非難したのに対し、カマチョはそれをけしかけ、選挙の国際的監査の要請を無視し、モラレス支持者全員を政府から追放するという彼の最大限要求を強調した。彼は野党の本当の顔であり、メサの穏健な姿の背後に何か月も隠れていたのだ。

カマチョは40歳。サンタクルスの分離主義者の拠点出身の億万長者の実業家だ。これまで公職選挙に立候補したことはない。ベネズエラのクーデター指導者フアン・グアイドについて米国政府が彼を仮の「大統領」に選定するまでベネズエラ人の80%以上はその名を聞いたことがなかったのと同様、カマチョはボリビアでのクーデターの試みが本領を発揮するまでは無名の人物だった。

彼はまずツイッター・アカウントを2019年5月27日に作成。数か月間、彼のツイートは無視され、3〜4回のリツイートといいね!を生んだにすぎなかった。選挙前、カマチョについての記事はウィキペディアになく、スペイン語または英語のメディアに彼に関するメディアプロフィールはほとんどなかった。

カマチョは7月9日にストライキを呼びかけ、ツイッターに動画を投稿したが、視聴回数は20数回にとどまった。ストライキの目標は、ボリビア政府の選挙機関である最高選挙裁判所(TSE)に退陣を強制することだった。つまり、カマチョは大統領選挙の3か月以上前に政府の選挙当局に辞任するよう圧力をかけていたのだ。

カマチョが脚光を浴び、メディア複合企業(地元の右翼ネットワークであるユニテルやテレムンド、スペイン語CNNなど)によって有名人に変身したのは、選挙後のことだった。

突然、モラレスの辞任を求めるカマチョのツイートが何千ものリツイートでライトアップされた。クーデター装置が作動し始めた。

ニューヨークタイムズやロイターのような主流メディアが後を追い、選挙で選ばれてもいないカマチョをボリビアの反対勢力の「リーダー」として持ち上げた。しかし、彼が国際的な注目を集めることになっても、極右活動家たるバックグラウンドの重要な部分は省略された。

言及されていないのは、カマチョが人種差別暴力や地元の企業カルテルで悪名高いキリスト教過激派民兵組織、そして中南米の右翼政権と深く定着したつながりを持っていることだ。

カマチョの政略が形成され、クーデターのイデオロギー的輪郭が定義づけられたのは、サンタクルスのファシスト民兵組織と分離主義的雰囲気の中においてだった。

[写真]ルイス・フェルナンド・カマチョの出発点となったボリビアのファシスト青年グループ、ウニオン・フベニル・クルセニスタ(UJC)の幹部。

フランコ主義スタイルのファシスト民兵組織幹部

ルイス・フェルナンド・カマチョは、モラレス暗殺計画に関与しているファシスト民兵組織であるウニオン・フベニル・クルセニスタ(UJC=サンタ・クルス青年連合)によって育てられた。このグループは、左翼や先住民農民、ジャーナリストを襲撃することで悪名高く、すべて徹底した人種差別主義・同性愛嫌悪のイデオロギーを支持している。

モラレスが2006年に就任して以来、UJCは、悪魔のような先住民大衆によって乗っ取られたとメンバーが信じた国からの分離を求めてキャンペーンした。

UJCは、スペインのファランヘ党、インドのヒンドゥー至上主義者RSS、ウクライナのネオナチ・アゾフ大隊のボリビア版だ。そのシンボルは緑の十字架であり、西側のファシスト運動のロゴと強い類似性がある。

そして、メンバーはナチ・スタイルの「ジークハイル」敬礼で始めることが知られている。

ボリビアの米国大使館でさえ、UJCメンバーを「人種差別主義」で「好戦的」と説明し、彼らは「頻繁に親MAS(社会主義運動)・親政府の人々と施設を攻撃してきた」と指摘している。

ジャーナリストのベンジャミン・ダングルは2007年にUJCメンバーと会った後、彼らをサンタクルス分離主義運動の「ブラス・ナックル」(格闘で使う金属製武器)と表現した。「ウニオン・フベニルは、ガス国有化をめざして前進する農民たちを打ち負かし、自治(分離)に反対する学生たちに石を投げ、国営テレビ局に火炎瓶を投げ、土地の独占に苦しむ土地なき民運動のメンバーに残酷に暴行を加えることで知られる」とダングルは書いている。

「われわれの文化を力で守る必要があるとき、われわれはそうする」とUJCのリーダーはダングルに語った。「自由の防衛は命よりも重要だ」

[写真]UJCの武装メンバー

カマチョは23歳になった2002年にUJCの副会長に選出された。2年後にUJCを離れ、一家のビジネス帝国を築き、親サンタクルス委員会の中で昇格していった。この組織において彼は分離主義運動の最有力者の一人、ブランコ・マリンコビッチという名のクロアチア系ボリビア人新興財閥の傘下に入ることとなった。

8月、カマチョは「大親友」のマリンコビッチとの写真をツイートした。この友情は、右翼活動家の資格を確立し、3か月後に形になるクーデターの基盤を築く上で決定的だった。

カマチョのクロアチア人ゴッドファーザー、分離主義の陰の実力者

ブランコ・マリンコビッチは、土地の一部がエボ・モラレス政権によって国有化された後、右翼野党への支持を強めた大地主だ。親サンタクルス委員会の委員長として、ボリビアの分離主義の主エンジンたる同委員会の運営を監督した。

2008年のマリンコビッチ宛て書簡の中で、国際NGO「国際人権連合」は「ボリビアの人種差別と暴力の実行者・促進者」として同委員会を非難した。

同人権連合は「分離主義、労働組合主義、人種差別主義の態度と言説、そして親サンタクルス市民委員会が主要な推進者の一員である軍事的不服従の呼びかけを非難する」と付け加えた。

2013年、ジャーナリストのマット・ケナードは、米国政府がボリビアのバルカン化を奨励し、モラレスを弱体化させるために親サンタクルス委員会と緊密に協力しているとレポートした。「彼ら(米国)が伝えてきたのは、どのようにしてコミュニケーション・チャンネルを強化できるかだった」と同委員会の副会長はケナードに語った。「大使館は、われわれのコミュニケーションの活動を助けてくれると言っており、彼らの考え方を提唱している一連の出版物がある」

2008年のマリンコビッチのプロフィールで、ニューヨークタイムズは、この新興財閥が主宰するサンタクルス分離運動の過激な底流の存在を認めた。同紙はこの地域について「ボリビア社会主義ファランヘ党のような公然たる外国人排斥グループの砦であり、手を空中に差し伸べるその敬礼は、スペインの元独裁者フランコのファシスト・ファランヘ党からインスピレーションを得ている」と説明した。

ボリビア社会主義ファランヘ党は、冷戦中にナチの戦犯クラウス・バルビーに安全な隠れ家を提供したファシスト・グループ。元ゲシュタポの拷問専門家だったバルビーは、コンドル作戦プログラムを通じてCIAに再利用され、大陸全体の共産主義を根絶させるのを助けた。(ドイツ国家社会主義者のような時代遅れの名前にもかかわらず、この極右の過激グループは暴力的な反左翼であり、社会主義者を殺すことにコミットしていた)

ボリビア・ファランヘ党は、その指導者ウゴ・バンセル・スアレス将軍がフアン・ホセ・トーレス・ゴンザレス将軍の左派政権を追放した1971年に権力を握った。ゴンザレスの政府は、産業を国有化することによってビジネス・リーダーたちを激怒させ、CIAの浸透の道具とみなした「平和部隊」を追い出すことによってワシントンに敵対した。ニクソン政権はすぐに両手を広げてバンセルを歓迎し、中南米における社会主義の広がりに対する重要な防壁として彼の機嫌を取った。(とくに皮肉な1973年の記事がウィキリークスにあり、ヘンリー・キッシンジャー国務長官がノーベル平和賞を祝福してくれたことでバンセルに感謝している)

モラレス時代にも、UJCのような組織やマリンコビッチ、カマチョのような人物を通じて、こうした運動の反乱主義の遺産が根強く残っていた。

タイムズ紙は、マリンコビッチもUJCの活動を支持していると指摘し、ファシスト・グループを「マリンコビッチ氏が率いる委員会の準独立チーム」と説明した。UJC理事会メンバーの一人は米紙のインタビューで次のように語った。「われわれは命をかけてブランコ(・マリンコビッチ)を守る」

マリンコビッチは、サンタクルスの極右組織になじみ深いキリスト教民族主義レトリックの類いを支持しており、たとえば「真実のための十字軍」を呼び求め、神は自分の側にいると主張する。

新興財閥の家族はクロアチア出身で、彼は二重国籍を持つ。マリンコビッチは、彼の家族が同国の強力なファシスト運動ウスタシャに関与していたという噂に長年さらされてきた。

ウスタシャは、第二次世界大戦中ナチス・ドイツの占領者に公然と協力した。クロアチアが旧ユーゴスラビアから独立を宣言した後、彼らの後継者が権力を取り戻した。旧ユーゴスラビアは、マリンコビッチがボリビアに望んでいたのと同じやり方で、NATOの戦争により意図的にバルカン化された旧社会主義国だ。

[写真]ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが1941年にウスタシャの創設者アンテ・パヴェリッチと会う

マリンコビッチは、彼の家族がウスタシャの一員だったことを否定している。ニューヨークタイムズとのインタビューでは、彼の父親はナチスと戦ったと主張した。

しかし、彼の支持者の何人かでさえ懐疑的だ。米国政府と密接に連携し、「影のCIA」として知られている民間情報企業Stratforのバルカン半島アナリストは、マリンコビッチに関する大まかな背景プロフィールを作成し、「まだ彼の完全なストーリーは分からないが、私はこの男の両親が第一世代であり(彼の名前はあまりにスラブ的だ)、彼らは第一次世界大戦後にチトーの共産主義者から離れたウスタシャ(ナチスと読む)のシンパだということに大枚を賭けてもいい」と推測した。

Stratforのアナリストは、サンタクルスの牧場にマリンコビッチを訪ねたジャーナリストのクリスチャン・パレンティによる2006年の記事を抜粋している。エボ・モラレスの「土地改革は内戦につながる可能性がある」とマリンコビッチは、テキサス大学ヒューストン校で学んでいたときに身に付けたテキサスなまりの英語でパレンティに警告した。

今日、マリンコビッチはブラジルの極右指導者ジャイル・ボルソナロの熱烈な支持者である。チリの独裁者アウグスト・ピノチェトに関するボルソナロの唯一の不満は、ピノチェトが「十分に殺さなかった」ことだ。

マリンコビッチは、ベネズエラの極右野党の公然の称賛者でもある。「トドス・ソモス・レオポルド」=「われわれはみなレオポルド」と彼は、ベネズエラの選挙で選ばれた左派政権に対する数々のクーデター未遂に関与したレオポルド・ロペスを支持するツイートをした。

マリンコビッチはパレンティとのインタビューで、武装戦闘活動におけるいかなる役割も否定したが、2008年にモラレスと社会主義運動の党関係者を暗殺する試みで中心的な役割を果たしたと非難されている。

彼は、暗殺計画が進む2年足らず前にニューヨークタイムズに語った。「われわれの危機に合法的な国際調停がなければ、敵対が起こるだろう。そして残念なことに、すべてのボリビア人にとって血まみれで痛みを伴うものになるだろう」

暗殺計画は、ボリビア右翼を国際的ファシストと関連付ける

2009年4月、ボリビアの治安組織の特殊部隊が高級ホテルの一室に入り、エボ・モラレス殺害計画に関与していたとされる3人の男を殺害した。他の2人は逃走したままだ。容疑者のうち4人はハンガリーやクロアチアのルーツを持っており、東ヨーロッパの右派政治と結びついていた。もう1人は6か月前にサンタクルスに到着したばかりのアイルランド人右翼、マイケル・ドワイヤーだった。

暗殺策謀者マイケル・ドワイヤーと武器

このグループの首謀者は、ファシズムに転向し、オプス・デイ(スペインのフランシスコ・フランコ独裁政権下に現れた伝統的なカトリックの団体)に所属していたエドゥアルド・ロッサ・フローレスという名の元左翼ジャーナリストだと言われた。実際、暗殺計画でロッサ・フローレスが想定していたコードネームは、亡くなった総統にちなむ「フランコ」だった。

1990年代、ロッサはユーゴスラビアからの分離戦争で、クロアチアの第一国際小隊(PIV)を代表して戦った。クロアチアのジャーナリストは「PIVは悪名高いグループだった。95%は犯罪歴があり、多くはドイツからアイルランドに至るナチやファシスト・グループのメンバーだった」とTimeに語った。

2009年までにロッサはボリビアに戻り、サンタクルスの別の分離運動を代表して十字軍に加わった。そして、サンタクルスのホテルで、明確な収入源がない一方、銃を大量に備蓄したまま殺された。

政府は後に、ロッサと共謀者が武器を持ってポーズをとっている写真を公開した。CIAの二重スパイを務めた元ハンガリー軍諜報将校であるIstvan Belovaiとロッサとの間のメールの公開は、ワシントンが作戦に関与していたという見方を固めた。

ボリビアの武器の隠し場とロッサ、ドワイヤー

マリンコビッチはその後、暗殺計画者らに20万ドルを提供したとして起訴された。このクロアチア系ボリビア人新興財閥は、最初は米国に逃亡し、そこで亡命を認められ、その後ブラジルに移住し、今そこに住む。彼はモラレス殺害計画へのいかなる関与も否定した。

ジャーナリストのマット・ケナードがレポートしたが、この計画を米国に結びつけた別の糸があった。ウゴ・アチャ・メルガルという名のNGOリーダーの参加が疑われている。

ボリビア政府の主任捜査官は「ロッサは自分でここに来たのではなく、連れられてきた」とケナードに語った。「ウゴ・アチャ・メルガルが彼を連れてきた」

人権財団がボリビアを不安定化

アチャはありふれたNGOのトップであっただけではない。彼は人権財団(HRF)のボリビア補助機関を設立した。これは、米国政府のターゲットとなる国々で政権交代(政権転覆)を求める活動家のための「革命の学校」をホストすることで知られる国際右派組織だ。

HRFは、亡くなったベネズエラ新興財閥でCIAのスパイであるトール・ハルヴォルセン・ヘルムの息子トール・ハルヴォルセン・ジュニアによって運営されている。歴戦のベネズエラのクーデター作戦家レオポルド・ロペスの最初のいとこであるハルヴォルセンは、ポリティカル・コレクトネス(被差別者を擁護すること)や他のよく知られた右翼ゴブリン(小鬼)に反対する運動をした元共和党学生活動家だった。

扇動的な右翼映画プロデューサーの短いキャリア(鉱業会社から資金提供を受けてスキャンダラスな「反環境主義」ドキュメンタリーを監督)を経て、ハルヴォルセンは自由主義の推進者およびグローバルな権威主義の敵対者にブランドを変更した。彼は、ピーターティールや保守財団、アムネスティ・インターナショナルを含むNGOなどの右翼の億万長者からの助成金でHRFを立ち上げた。同グループはその後、香港から中東、ラテンアメリカに至る反乱活動のための活動家訓練の最前線にいる。

アチャは米国で亡命を認められたが、HRFはボリビアの政権転覆を推進し続けている。ワイアット・リードが『グレーゾーン』でレポートしたように、HRFの「自由の仲間」であるジャニス・ヴァカ・ダザは、8月にボリビア各地を破壊したアマゾンの火災をモラレスのせいにしてクーデターの初期段階を引き起こし、国際的なモラレス抗議を駆り集めた。

当時、ダザは「環境活動家」そしてボリビアへの国際的な援助を穏健な見せかけで求め懸念を表明する非暴力の学生を装った。彼女のNGOであるRios de Pieを通じて、#SOSBoliviaのハッシュタグ立ち上げを支援。差し迫った外国の援助による政権転覆作戦へシグナルを発した・

地域の右派を集め、クーデターを準備

HRFのダザはヨーロッパと米国のボリビア大使館前で抗議を組織し、フェルナンド・カマチョは舞台裏で来るべきクーデターを祝福するよう中南米各国の右派政権にロビー活動を行った。

5月、カマチョはコロンビアの極右大統領イバン・ドゥケと会談した。カマチョは、10月選挙へのエボ・モラレスの立候補を阻止しようと、米州人権裁判所でモラレス大統領の正当性を掘り崩すための周辺各国の努力を先導する手助けをしていた。

5月、コロンビア大統領イバン・ドゥケと会うカマチョ

同じ月、ボリビアの右翼アジテーター(カマチョ)は、ブラジルのジャイル・ボルソナロ超保守政権の首相であるエルネスト・アラウホとも会った。会合を通して、カマチョはボリビアの政権転覆に対するボルソナロの支援を成功裏に確保した。

この11月10日、アラウホはモラレス追放を熱心に支持し、「ブラジルは同国の民主的立憲的な政権移行を支援する」と宣言した。

ボリビア大統領選の2か月前の8月、カマチョは米国が指名したベネズエラ・クーデター政権の役人と法廷を開いた。この中には、以前ワシントンの右派シンクタンク戦略・国際​​問題研究所(CSIS)で働いていたグアイドのニセ・ベネズエラOAS大使グスタボ・タレが含まれていた。

会合の後、カマチョはコロンビアとブラジルに対するのと同様に、ベネズエラのクーデター屋たちにも感謝の意を表した。

メサとカマチョ:資本主義の利便性の結婚

ボリビアに戻ったカルロス・メサは野党大統領候補として脚光を浴びた。

彼は博識なイメージと中道派政策の提案により、カマチョやマリンコビッチのような火を吐く右翼とは一見異なる政治世界に引き入れられた。彼らにとって、彼は便利な看板役であり、彼らの経済的利益を守ると約束した容認できる候補者だった。

マリンコビッチは選挙の5日前、アルゼンチンの右派系紙に「彼は私のお気に入りではないかもしれないが、エボは嫌なので彼に投票するつもりだ」と語った。

確かに、メサ支持を必要としたと思われるのはカマチョの実際的​​な経済的利益だった。

カマチョ一家は、サンタクルスで天然ガス・カルテルを設立した。ボリビア紙プリメーラ・リネアが伝えたように、ルイス・フェルナンド・カマチョの父ホセ・ルイスは、同市にガスを配給するセルガスと呼ばれる会社の所有者だった。叔父エンリケは、地元のガス生産施設を運営する会社ソクレを支配していた。そして、いとこのクリスティアンは、コントロガスと呼ばれる別の地元のガス販売業者を管理している。

プリメーラ・リネアによると、カマチョ一家は、カルロス・メサを政権に就け、彼らのビジネス帝国の回復を確実にするための政治的武器として親サンタクルス委員会を使っていた。

メサには、自国の人びとを犠牲にして多国籍企業の諸目的を前進させてきた、十分に裏付けられた歴史がある。新自由主義政治家でメディア・パーソナリティの彼は、米国に支援されたゴンサロ「ゴニ」サンチェス・デ・ロサダ大統領が多国籍企業のコンソーシアムによるボリビア天然ガスのチリの港を通じた米国への輸出を認める2003年の政策で大規模な抗議行動を引き起こしたとき、副大統領を務めていた。

米国で訓練されたボリビアの治安部隊は残忍な弾圧で猛烈な抗議に直面した。非武装の抗議者70人の殺害を統轄した後、サンチェス・デ・ロサダはマイアミに逃げ、政権はメサに引き継がれた。

2005年までにメサもまた、民営化された天然ガス諸会社を保護したことで拍車がかかった巨大なデモによって追放された。メサ政権の終焉により、モラレスの選出とその背後にある社会主義および地方の先住民運動の台頭は、地平線のすぐ先にあった。

ウィキリークスが明らかにした米国政府の通信記録は、メサが追放後、アメリカの当局者と定期的なやり取りを続けたことを示している。駐ボリビア米国大使館の2008年のメモは、ワシントンが2009年大統領選の前段で、モラレスを弱体化させ最終的に退陣させることを期待して、野党政治家と共謀していたことを明らかにした。

このメモは、メサが米国大使館の担当者と会い、大統領に立候補する計画があることを非公式に伝えたことを指摘している。通信記録にはこうある:「メサは、彼の党がイデオロギー的に社会民主主義政党に似ており、民主党との結びつきを強めたいと希望している、と私たちに語った。『私たちは共和党に何ら反対ではなく、実際過去にIRI(International Republican Institute=共和党国際研究所)から支援を得たが、民主党とはより多くのイデオロギーを共有していると思う』と彼は付け加えた」

今日、メサはラテンアメリカに焦点を当てたワシントンに拠点を置く新自由主義のシンクタンク、インターアメリカン・ダイアログの社内「専門家」を務めている。ダイアログのトップ資金提供者の一つが、米国国際開発庁(USAID)だ。これは、ウィキリークスで公開された機密外交通信記録から暴露された、「エボ・モラレスの先住民コミュニティビジョンに反対する人々」を含む野党諸グループに戦略的に数百万ドルを振り向けるための国務省の補助機関だ。

ダイアログの他のトップ資金提供者には、シェブロンやエクソンモービルなどの巨大石油会社、メサの政権に対する最初の抗議を引き起こしたベクテル、モラレスの社会主義志向の政策に強く反対している米州開発銀行、さらに不正な開票との疑わしい主張でモラレスの再選勝利を非合法化するのを助けた米州機構(OAS)が含まれる。

仕事を終える

カルロス・メサが10月にエボ・モラレス政権を不正選挙の罪で告発し、全国的な抗議行動を開始したとき、支持者から「マッチョ・カマチョ」と称賛される右翼扇動者が影から現れた。彼の背後には、彼がサンタクルスで率いた筋金入りの分離主義者の衝撃部隊がいた。

カマチョがクーデターの正真正銘の顔として浮上し、サンタクルス青年連合の民兵組織を特徴づける妥協のないレトリックとファシスト・シンボルで勢力を結集するにつれ、メサは遠くに消えていった。

モラレスに対する勝利を宣言したカマチョは、支持者に「仕事を終え、選挙を進めよう。政府の犯罪者の裁きを始めよう。彼らを刑務所にぶち込もう」と強く勧めた。

一方、ワシントンではトランプ政権がボリビアのクーデターを祝う公式声明を発表し、「モラレスの退陣により民主主義は守られる」と宣言した。

マックス・ブルーメンタールは受賞歴のあるジャーナリストで作家、『グレーゾーン』創設者・編集者。ベン・ノートンはジャーナリストで作家、映画製作者、『グレーゾーン』のアシスタント編集者。

−ここまで−

(編集部 浅井健治)
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2019年10月25日

DSA組織化ガイド:目次とまえがき

以下は、DSA(アメリカ民主主義的社会主義者)発行『メディケア・フォー・オール組織化ガイド』の目次および"まえがき"の拙訳です。MDSウェブサイトにアップされている同『ガイド』第1〜3章と合わせてお読みください。
http://www.mdsweb.jp/doc/translate/transrate06.pdf
http://www.mdsweb.jp/doc/translate/transrate08.pdf

なお、文中〈 〉でくくった個所は原文では赤字で、2017年DSA大会決議へのリンクが貼られています。
https://www.dsausa.org/democratic-left/dsa_priorities_resolution_2017/

また、《 》でくくった個所は原文で太字になっている部分です。

−ここから−

メディケア・フォー・オール組織化ガイド

目次

メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始めよう:DSA組織化ガイド
1 社会主義とメディケア・フォー・オール
2 組織化とリーダーの育成
3 メディケア・フォー・オールの戸別訪問を実行する
4 メディケア・フォー・オールに関する教育イベントを開く
5 市役所に足を運ぶ
6 メディケア・フォー・オールに関する政治的発言を行う
7 あなたのメディケア・フォー・オール・キャンペーンのPRをする
8 あなたのメディケア・フォー・オール・キャンペーンを選挙活動と一体化する
9 メディケア・フォー・オールの市議会決議を採択する
10 メディケア・フォー・オールのよくある質問
11 むすび

メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始めよう:DSA組織化ガイド

この資料集は、メディケア・フォー・オールをめぐって組織化しているアメリカ民主主義的社会主義者の支部のためのもので、こうしたイベントやアクション、戸別訪問を過去1年間自らの支部において組織化してきた全国のDSAメンバーによって作成された。その狙いは、メディケア・フォー・オールが〈国の最優先事項〉である理由を明確にし、組織化とリーダーの育成について考える枠組みを与え、さまざまな政治戦術の「ハウツー」ガイドを提供することにある。私たちは、最良の実践例を見つけ、メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始めようとする支部に最大限役立つガイドを作成しようと試みた。ただし、イベントを組織化する方法は一つではなく、つねに改善の余地があるだろうと考えている。

実際、私たちはこの組織化ガイドがさらに充実し、あなたの市におけるメディケア・フォー・オール支持の市議会決議獲得や共同行動の構築、あなたの州におけるメディケイド拡大の戦略的な闘い、その他DSA支部がすべての人をカバーする医療保険制度をめざして闘うために取ることのできる重要な戦略と戦術に関する記述も盛り込まれていくことを願っている。全国各地の支部からの活動レポートについてはブログを参照してほしい。

キャンペーンをスタートさせる方法は一つではなく、あなたが選ぶアクションは地域の諸条件に大きく左右される。メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始める方法をあれこれ考えるには、▽自らのコミュニティで何が起きているか▽お金や人の観点でどんな援助を頼みにできるか▽DSA会員以外で最も大切な支持基盤はどんな人びとか▽どうすれば労働者階級の人びととその諸組織に働きかけることができるか−を見定める必要がある。また、もっと実践的な検討事項もある:州議会または市議会に、メディケア・フォー・オールやメディケイド拡大、有給の病気休暇に賛同することに前向きな議員はいるか。この問題や関連する問題で他にどんな団体が活動しているか。もうすぐ開かれる、あなたが参加できそうな大きな地域のイベントはあるか。

そして何よりも自らに問うてほしい:《この国の非人道的な医療制度から利益を上げているカネまみれの勢力に立ち向かうことのできる大衆運動を築くために、私たちの支部はどうやって、これまで政治に関わってこなかった人びとの心をつかむのか》。私たちの運動は、仲間内ではない人びとと熱心に会話を重ね、その人びとに圧倒的多数のアメリカ人のプラスとなる闘いに参加してもらうことによってのみ、勝利するだろう。

DSAメディケア・フォー・オール運営委員会は、あなたの支部がすべての人をカバーする医療保険制度に向けた闘いに加わるためのツールを開発する手助けをします。ご自由にいつでもご連絡ください:medicareforall@dsausa.org

連帯!

−ここまで−

原文は:
https://medicareforall.dsausa.org/organizing-guide/launching-a-medicare-for-all-campaign

2017年DSA大会決議については週刊MDS第1588号掲載の日南田成志さんレポートで言及されていますので、ご参照を。
http://www.mdsweb.jp/doc/1588/1588_02a.html

メディケア・フォー・オールそのものについて手早く理解するには週刊MDSの次の記事が役に立ちます。
【MfA(メディケア・フォー・オール すべての人への公的医療保険) 米国医療制度を根本から変える サンダースが提案、DSAも支持】
http://www.mdsweb.jp/doc/1582/1582_03n.html

(編集部 浅井健治)
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2019年10月17日

「恨之碑」−人間の尊厳と誇りを刻む

金城実さんが「恨之碑」を制作した当時の記事は、週刊MDSの前身の『統一の旗』時代、ウェブ発足前の号に掲載されています。以下、記事データベースから転載します。

【1999年1月22日 第575号 強制連行の韓国人軍属を弔う 沖縄で“恨之碑”建設の会発足】
 太平洋戦争中に沖縄に強制連行された人々の恨(ハン)を表し、無念の死を遂げた韓国人元軍属(軍で働く労働者)らの霊を弔う記念碑を建設しようという運動が始まった。

◎仲間の霊を弔いたい

 きっかけとなったのは、元軍属・姜仁昌(カン・インチャン)さんと徐正福(ソ・ジョンボク)さんによる一昨年の沖縄訪問。沖縄戦当時、姜さんは慶良間諸島の阿嘉島に、徐さんは宮古島にそれぞれ連行されていた。姜さんらは、「平和と生活をむすぶ会」の協力で阿嘉島を訪れ、同胞十二名の虐殺の跡を確認。その後も「生きている内に仲間の霊を弔いたい」との思いを募らせてきた。これを受けて、昨年十二月十九日、那覇市内で「『太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨(ハン)之碑』建設をすすめる会」の発足式が行われた。
 発足式には、沖縄から碑の制作にあたる彫刻家・金城実さんや弁護士・池宮城紀夫さん、音楽家・海勢頭豊さんらが、本土からは「むすぶ会」の豆多敏紀代表らが参加。被害者が強調する「恨」という言葉をどう受け止めるかの議論が行われた。韓国語の「恨」は日本語の「恨み」とは違い、「遂げられない心の嘆き」ともいうべき意味を表す言葉だ。「沖縄の人々が戦後ずっと持ちつづけている気持ちとも共通するものがある。『もののあわれ』というようなものではないか。これは二十一世紀にむけて両国の間で取り入れていくべき思想だと思う」(海勢頭さん)という認識を共通のものにした。

◎歴史の事実を伝える

 二人の出身地である韓国・慶尚北道からは数千人が沖縄に連行されたといわれている。その人々の記録は公式には何も明らかにされていない。今回の碑の建設は歴史に埋もれていた強制連行被害者の無念の思いを掘り起こす事業でもある。
 慶尚北道での碑の除幕式は八月十五日に予定されている。「すすめる会」はその日に向けて、呼びかけへの賛同や一千万円を目標とした基金への拠出を訴えている。

【1999年8月13号 第603号 人間の尊厳と誇りを刻む 沖縄戦被徴発者恨之碑 「子々孫々への宝物」】
 韓国人元軍属らの霊を弔う記念碑―「太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨(ハン)之碑」がついに完成した。韓国―沖縄―日本本土を結んだ民衆の共同事業に、全国三十都道府県約六百人から六百二十万円の募金が寄せられている。沖縄在住の彫刻家・金城実さんが心血を注ぎ込んだ「恨之碑」は八月十二日、韓国・慶尚北道英陽郡で除幕式を迎える。

 分散会で、元軍属の徐正福(ソ・ジョンボク)さんは「子々孫々に残していく立派な宝物ができた」と碑にかけた思いを語った。「『付近の警備』の名目で宮古島に連行されたが、実際は一番危険な陸軍の軍用品を荷役する揚陸作戦に就いた。五十〜六十機の空襲で船は降沈。日本の船員は全員助かったが、軍夫は浮き袋もなく全滅した。遺骨は見つからなかったが、みなさんの努力で素晴らしい碑ができた」と繰り返す。韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会の李煕子(イ・ヒジャ)さんは「長い遺族会の活動の中で、目に見えるものを残してこなかっただけに実現できてうれしい。この碑を発信にして沖縄・日本・韓国の関係が深まってほしい」と呼びかけた。

 開口一番「この仕事に出会い、誇りに思っている」と語ったのは金城さん。「これまでの彫刻を見ると、女性の裸と鳩を描いて『平和の像』というエセ正義が多い。これは戦前の“報国”芸能と同じだ。戦争犠牲者の恨の核心に迫りたいと彫刻に取り組んだ。人間の尊厳と誇りを、この像に吹き込みたい」。目隠しされた青年を処刑する日本兵の醜さをどう表現するのか悩み、韓国に搬入する当日の朝まで制作に従事したという。「戦争の悲惨さや二度とあってはならないとの思いを込めた恨之碑を、沖縄・日本本土・韓国の間で大きく成長させていこう」と訴えた。

 約七か月の建立運動は急速に支援・協力の輪を広げている。運動を担ってきた仲間は「若い人が『私たちもこういうことにお金を出さなくちゃね』と友だちに働きかけ三人分カンパした。戦争動員法や『日の丸・君が代』法案など矢つぎ早の攻撃の中、『今、声を上げなければ』の思いはみんな共通だ。若い人は無理かと思っていたが、そんなことはない」(東京・高畑さん)「当初は反応がなかったが、五月に徐さんの話を聞いてから振り込まれる募金が急速に伸びた。除幕式に向けたタペストリーへの協力はすでに五十人を超えている」(大阪・藤田さん)と取り組みの手応えを発言した。
 新聞や各団体の機関紙などにも掲載され、事務局が知らない人々からも続々と募金が届いている。恨之碑建立を進める会事務局長の豆多さんは「目標の一千万円を達成し、アジアの人々と仲良く生きていく社会を作るために、さらに建立運動を広めよう」とまとめた。

(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 19:05| 報道/活動報告

週刊MDS紙面の金城実さん

以下は、週刊MDSウェブに全記事をアップしていなかった時期の、沖縄の彫刻家・金城実さんが登場する記事をデータベースから転載したものです。

【2010年4月16日 第1129号 防衛省前で抗議行動 基地はどこにもいらない! 普天間基地の無条件返還を 県民大会に連帯行動】
 鳩山政権の新基地建設案を封じ込める闘いは大きな山場を迎えている。
 名護市辺野古で続けられている座り込み行動と連帯して毎月行なわれる防衛省前の抗議行動(主催・辺野古への基地建設を許さない実行委員会)。4月5日には市民ら100人が集まり、「普天間の無条件返還をアメリカに要求せよ」「勝連沖も陸上案も徳之島も許さない」と力のこもったシュプレヒコールが繰り返された。
 翌6日からは首相官邸前で鳩山首相の「最低でも県外」の公約履行を求めてウチナンチュ(沖縄県人)が4日間の座り込み行動に入る。その呼びかけ人の一人、読谷村議の知花昌一さんの発言に大きな拍手が起こった。
 「95年の少女暴行事件など、沖縄の怒りを受けて負担を軽減すると言いながら、基地機能は強化され続けている。今、このチャンスを逃しては基地をなくすことはできない。25日には、読谷村で10万人の県民大会を成功させ沖縄の怒りを突きつける。その前に県内移設案が発表されるのを食い止めるため、座り込みにぜひ参加してほしい」

 同じく呼びかけ人の彫刻家・金城実さんは「皆さんが毎月ここで行動を続けてこられたことに勇気づけられている。新たな県内移設を許すことは、(薩摩の侵攻、廃藩置県、日本返還に次ぐ)4度目の琉球処分。沖縄県民はずっとだまされ捨て石にされてきた。防衛省、よく聞いておけ。いかにおとなしい沖縄人でもこれ以上の不当な弾圧、人権切り捨てに黙ってはいない」と、防衛省に向かって怒りをぶつけた。
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 WWF(世界自然保護基金)ジャパンの花輪伸一さんもかけつけた。「4・25県民大会に合わせて、東京でもノー・ベース・オキナワの人文字行動を取り組む」と沖縄の闘いへの連帯を訴えた。

 防衛省に対して、金城さんに続いてSDCC(ジュゴン保護キャンペーンセンター)の代表が要請。「キャンプシュワブ陸上案も、勝連半島沖の埋め立て案も、サンゴや海草を死滅させジュゴンの海を死の海に変える」と普天間基地の即時閉鎖とジュゴン保護区の設置を求めた。

◎ウチナンチュ 官邸前座り込み

 4月6日、金城実さんや知花昌一さんら、ウチナンチュが首相官邸前で座り込みを始めた。
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 それぞれが座り込みへの思いを述べ、国会議員などの連帯アピールが続く。その後、金城さんらは首相宛て要請書を携えて内閣府へ。内閣府職員は当初、敷地の外で応対した。「沖縄では米軍司令官でさえ施設の中に迎え入れて抗議や要請を受ける」「恥ずかしくないのか」と抗議。職員は庁舎内に戻り、十数分後、上司が「事前の連絡がなかったので」と言い訳しつつ、庁舎1階の応接室に要請団全員を受け入れた。(詳報次号)
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【2010年4月23日 第1130号 沖縄県民をなめるな 首相官邸前・国会前で座り込み】
 基地撤去の沖縄の声を届けようと、彫刻家の金城実さんらウチナンチュ(沖縄県人)6人が呼びかけて4月6日から9日まで首相官邸前と国会前で座り込みが取り組まれた。4日間で延べ千百人が行動を共にした。

 スタートの6日。「ウチナンチュをなめるな」の横断幕を掲げ、発言が続く。
 金城実さんは「今の政府はしかと認識せよ。400年前の薩摩による処分、1871年の廃藩置県という名の処分。返還の時には密約事件。第4回の琉球処分をするつもりなのか。沖縄の人間をなめとる。新しい政権は甘く見たらいかん。沖縄がこれであきらめると思ったら大間違いだ」。読谷村で農業に従事する知花盛泰さんは「51年前、宮森小学校に米軍機が突っ込み、17人が亡くなった。それが沖縄の現実だ。今の案は県内たらい回し。狭い沖縄には基地を作らせる場所はどこにもない。基地は県民を守っていない。アメリカの基地はアメリカに持っていけと訴えたい」。
 山内徳信参院議員は「沖縄の怒りはついに総理官邸の前に結集した。なぜここまでしなければ政府は沖縄の声を聞かないのか。鳩山総理、当時の代表は沖縄県民に約束した。アメリカに持って帰れと交渉すべきだと。官邸ののど元で訴えよう」とアピール。
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 最終日の9日は国会前で沖縄上京団を先頭に座り込んだ。
 上京中の伊波洋一宜野湾市長が飛び入りでマイクを握った。「06年に合意したロードマップでは普天間のヘリ37基のうち12基が岩国、残りの25基がグアムに移るはずだった。そもそも海兵隊は沖縄や日本を守る軍隊じゃない。沖縄に海兵隊の基地を作る必要性はどこにもない。撤去しかない」と励ました。

 上京団の宿泊場所を提供した日本山妙法寺の武田隆雄さんは「普天間は沖縄だけの問題ではなく、イラクやアフガンに人殺しに行く基地であり、私たちの問題だ」。イラク戦争の検証を進めるネットワークの志葉玲さんは「今日、鳩山首相に検証委員会設置を求める100人の国会議員の署名を渡した。イラク戦争に果たした沖縄の検証を含めて真実を明らかにさせたい」。参加者が共通に訴えるのは、基地はどこにもいらない、だ。
 4月25日には沖縄で10万人規模の県民大会が計画されている。「本土から大挙して参加しよう」「この日に全国各地で同時に集会を持とう」など連帯の声が相次いだ。沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック、東京沖縄県人会は同日同時刻に社会文化会館で集会を開く。夜は明治公園で人文字集会が計画されている。
 締めくくりは首相官邸前に移動し抗議。読谷村の知花昌一村議が決意を述べた。「辺野古はまだ杭1本も打たせていない。沖縄のどこにも基地は作らせない。体を張って阻止する。島ぐるみの闘いがアメリカではなく日本政府相手に起こる。そうならないために無条件で基地は撤去すべきだ。闘いはこれからだ」

【上記座り込み時の金城実さん発言の詳細 取材メモより】
 沖縄の人は中央の日本政府の動きには敏感だ。知識や情報ではなく、歴史を背負って差別と不当な仕打ちを受けてきて、肌で、匂いで感じている。触覚で、見つめている。
 今の政府はしかと認識をせよ。400年前の薩摩による処分、1871年の廃藩置県という名の第2の処分。返還の時には密約事件。西山記者は一生を棒に振った一方で、佐藤栄作はノーベル平和賞をもらってあの世へ行った。第4回の琉球処分をするつもりなのか。口先だけでかわいそうとか負担軽減とか言う。青い空青い海とかゴーヤチヤンブルーとか、沖縄の人はやさしいとか。恥知らずだ。沖縄の人間をなめとる。新しい政権は甘く見たらいかん。
 次から次に来ますよ。個人参加です。何々組合とか何々党ではなく、一人一人のウチナンチュが、それを受けとめる良心的な人々が、これから来る。もう来ています。私の生まれ故郷のうるま市からも来ている。
 沖縄がこれであきらめると思ったら大間違いだ。そのことをしかと肝に銘じてほしい。

【2013年8月13日 第1145号 韓国併合100年 戦後補償から東アジア共同体へ 8月「日韓市民共同宣言大会」の成功を】

◎靖国合祀を批判

 全交の分野別討議「韓国併合100年 戦後補償から東アジア共同体へ」には、約30人が参加。「韓国併合100年」の今年こそ、日本とアジアの過去・現在・未来の関係を問い直す絶好の機会にしていこうと呼びかけられた。
 海外ゲストとして参加した韓国の太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表の李熙子(イ・ヒジャ)さんは特別報告で「生き別れた父の痕跡だけでも探そうと被害者運動に参加した。父が靖国神社に合祀されていることを知ったのは97年だった。ところが、靖国神社には30年以上前の59年に合祀されていた。日本政府は韓国の遺族には何も知らせていないのに、靖国神社には父の情報を渡していた。こんなことが許されるのか。全く資料が見つからない遺族も多い」と、当事者を無視して進められた靖国合祀を批判した。
 続いて、沖縄・合祀ガッティンナラン訴訟原告の金城実さんが報告した。「沖縄戦で壕を追い出された住民、集団強制死させられた赤ん坊も日本軍の協力者として援護法の対象になった。そして、援護法の対象になったことを理由にその赤ん坊も靖国神社の神として祀られている。靖国神社はそれほどいい加減なところだ。法廷は靖国や国との闘いの場だ」。10月26日の1審判決への支援を訴えた。

◎注目集めた写真展

 討議では、関東での『韓国併合100年写真展』の取り組みが注目された。東京・江東区で取り組んだスタッフは「右翼の宣伝カーが15台も来て妨害したが、1日で100人が参加して成功した。感想もよく、準備過程でも地域の方の多くの協力を得た。大きな一歩を踏み出した」と語った。横浜市からは、「『2人いればできそうだ』と開催を決め、地域の知人友人に呼びかけたところ、財政的支援、当日のスタッフ、宣伝など協力してくれる実行委員が25人も集まった。1週間で230人以上が見に来てくれた」と成功例が報告された。
 イ・ヒジャさんから10月に韓国の遺族が日本全国を回る証言集会の企画の報告があり、それをどう支えていくのか議論された。参加者の一人は「政治を変えるしかない。それには東京だけで取り組んでいてもだめ。遺族の証言集会に地元の国会議員にも来てもらおう」。強制労働・軍人軍属の立法解決案も報告された。地域での取り組みを積み上げ、来年の通常国会への同解決法案提出を目指すこと、8月の「日韓市民共同宣言大会」を成功させ「宣言」への支持を全国に広げることなどを拍手で確認した。

【2010年10月8日 第1152号 「韓国強制併合」100年を考える 沖縄で4団体が集いを開催】
 「日本による『韓国強制併合』百年を考える集い・沖縄」(主催・同実行委員会)が9月25日、那覇市内で開催された。沖縄戦で朝鮮半島から強制連行された軍夫問題に取り組んできた「沖縄恨(ハン)之碑の会」が呼びかけ、一日実行委員会として日韓合同授業研究会沖縄委員会 、「靖国合祀ガッティンナラン!訴訟」原告団、 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の3団体が加わった。

◎「市民共同宣言」を受けて

 司会と運営は、恨之碑の会代表の安里英子さん。「先月、東京やソウルで『日韓市民共同宣言』が採択された。日ごろから沖縄で朝鮮半島との民衆連帯に取り組んでいる団体がこうして一緒に開催までこぎつけたことが大きい」と開催までの経過を報告する。開会の挨拶は、同じく恨之碑の会理事の平良修さん。「なぜ『日韓併合』と言われるのでしょうか。今日の集会名称には『韓国強制併合』と書かれています。すべての表記を『韓国強制併合』と書き改める思想を広げたい」と開催の意義が強調された。
 特別報告として、読谷村議会議員の知花昌一さんが6月22日に村議会で採択された「日本軍『慰安婦』問題の解決をめざす法制定を求める意見書」の取り組みを報告。「私の議員任期も明後日27日まで。最後の仕事として慰安婦決議に取り組んだ。沖縄戦では村内に11か所の慰安所があり、40名以上の慰安婦の方がいた。決議の翌日、大阪の一市民から匿名で抗議文が議会に届けられたが、ぜひこうした運動を県内で広げたい」と力強く語った。

◎東アジアの平和に向けて

 第1部は、復帰の年から38年間沖縄に住む朝鮮近代史研究家で汎民研究会共同代表の金洙變(キム・スソプ)さんが「近代史におけるアジアと朝鮮・日本〜アジアの支配をもくろんだ日本の朝鮮占領〜」と題した講演。金さんは「日本による強制併合という植民地政策による最大の問題は、朝鮮戦争の悲劇をはじめとする旧ソ連とアメリカが行なった南北分断がいまだに続いていること。朝鮮半島はひとつ、東アジアに平和で安定的な未来をつくるために一日も早い平和的統一を」と強調した。
 第2部は、実行委員会構成団体からの報告。「靖国合祀ガッティンナラン!訴訟」原告団の金城実さんは「尖閣問題でまた天皇制という靖国思想のウイルスが全国に広がっている。沖縄はもう犠牲になりたくないので、おとなしくしてほしい」とナショナリズムを煽る日中両政府に苦言を呈した。
 昨年、沖縄は島津藩による侵攻400年だった。日本政府による沖縄への軍事支配は基地問題を見ても変わっていない。「韓国強制併合」は、沖縄の問題でもあることが最後に確認された。

(編集部 浅井健治)
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2019年10月13日

上田電鉄別所線鉄橋が崩落

台風19号の影響で、長野県上田市の北陸新幹線上田駅と「信州の鎌倉」別所温泉とを結ぶ上田電鉄の千曲川鉄橋が崩落してしまいました。
https://www.asahi.com/articles/ASMBF2CGGMBFUOOB005.html

上田電鉄別所線はわが青春の記念碑です。連れ合いの実家が同線「八木沢」駅近くにあります。45年以上前、上野から当時の国鉄信越線夜行急行に乗って軽井沢で夜明けを迎え、上田駅で別所線「丸窓電車」に乗り換えてこの鉄橋を渡り、初めて同家を訪ねたことでした。

別所線沿線には数々の観光スポットがあります。国宝「八角三重塔」の安楽寺、重要文化財「石造多宝塔」の常楽寺、おはぎがおいしい前山寺(ここの三重の塔もすばらしい。私はこちらのほうが好きです)、その近くの志半ばで戦場に散った画学生たちの作品を展示した「無言館」、信濃デッサン館(塩田平を見下ろすすてきな喫茶室がありましたが、今は無期限休館中か)、生島足島神社、中禅寺、龍光院、別所温泉の「石湯」「大湯」「大師湯」、北向観音とその境内の縁結びの木「愛染カツラ」…などなど。

こうした場所を車を使わず訪れるには、必ず別所線の電車に乗って千曲川の鉄橋を越えなければなりません。その鉄橋が無残にも崩れ落ち、復旧の見通しも立たないとは。心の中にとてつもなく大きな穴が開いてしまったようです。

別所温泉地区、安楽寺に向かう一角に、戦前の労農党代議士山本宣治の記念碑が置かれています。『長野県上小地方農民運動史』(「上小(じょうしょう)」は「上田」と「小県(ちいさがた)郡」を合わせたこの地方の呼び名)という本に載っていた記念碑の碑文は、以下の通りです。

−ここから−

山本宣治講演記念碑の再建について

上田市周辺の貧農小作人の組織だった上小農民組合連合会は一九二九年(昭和四年)三月一日、労働農民党の代議士山本宣治を迎えて上田市公会堂で講演会を開きました。当時労働者農民が選出した代議士までが軍部に屈服して「山宣ひとり孤塁を守っていた」時でしたので、不況と戦争による極度の社会不安のなかに生きていた多くの労働者農民がこの講演会に集りました。山宣は革命的な代議士の議会活動について具体的に話しましたが、臨席警官の「中止」によって中途で打ち切られました。しかしこの時は山宣が第五六回帝国議会で極反動の弾圧法「治安維持法」を死刑にまで改悪する「緊急勅令」の「事後承諾案」に対する反対演説の草稿を決死の覚悟で準備していた時でしたので、その講演はこの地方の労働者農民に大きな感動を与えました。山宣はその「事後承諾案」が議会に上程された三月五日の夜、東京神田の旅館で田中軍治内閣の手先に虐殺されました。上田での講演の四日後のことでした。

山宣虐殺は全国勤労者の激しい怒りをまきおこしました。上小農民組合連合会でも直ちに上田市公会堂で山宣追悼会を開き、東京の山宣労農葬に参加して帰ってきたタカクラ・テルの報告を聞きました。その報告もやはり臨席警官の「中止」で打ち切られましたが、上小農民組合連合会はその席上、山宣の一周忌までにその講演記念碑を建てることを満場一致で決定し、責任者を選出しました。こうして山宣の死はこの地方の民主運動に一層大きな影響を与え、労働者農民運動の新しい高まりの重要な原因の一つになりました。

しかし記念碑の建設には非常に大きな困難がありました。費用や材料は同志たちの特別の努力で予定どおり解決できましたが、軍事色一色の当時、建設地の承諾をえられる場所がどこにもなかったからです。最後に別所村のタカクラ・テルの借家の一部に家主の斎藤房雄氏の承諾をえてやっと建設地を決定できました。そして山宣一周忌の一九三〇年(昭和五年)五月一日、多数の警官に取り囲まれながら赤旗を林立させて山本宣治講演記念碑の除幕式を決行しました。碑面には山宣の愛誦句で一生の方針をも示した「人生は短く科学は長い」のラテン語“Vita Brevis Scienta Longa(ヴィタ・ブレビス・スキエンタ・ロンガ)”をきざみました。

一九三三年(昭和八年)長野県全域にわたる「二・四事件」の大弾圧があり、この地方でも多くの労働者農民が逮捕投獄されました。タカクラ・テルも投獄され、山宣記念碑も警察がこなごなに取りこわすよう家主の斎藤房雄氏に命じました。しかしさいわいにも斎藤氏は警察へは碑は完全にこわしたと始末書をだして、碑と台石はひそかに自宅(柏屋別荘旅館)へ運んで庭の一隅に埋め、今日まで保存しました。

今日ここに再建できた山本宣治講演記念碑はこうして造られ、こうしてこわされ、こうして保存されてきたものです。明らかにこの山宣記念碑は東信地方の民主主義運動の歴史の重要な記念碑の役わりをも果たしており、また今日これが再建できた事実は日本民主主義運動の偉大な発展をも具体的に示しています。この記念碑の再建に協力してくださり、さまざまの援助を与えてくださった方方に心からお礼を申しあげます。同時に日本民主主義運動のためにいっそう献身することをここにあらためて誓います。

一九七一年一〇月八日

山本宣治講演記念碑再建実行委員会
撰文 タカクラ・テル
書 山本虎雄

−ここまで−
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(前山寺・三重塔)

(編集部・浅井健治)
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2019年10月07日

週刊MDS最新号 金城実さん寄稿を読む

週刊MDS最新号(10月11日付第1595号)8面に彫刻家・金城実さんの寄稿が掲載されています。つねに自らと自らの属する集団(ウチナーンチュであったり芸術家団体であったり)への冷徹な自己批判の眼差しを絶やさない金城さんの姿勢、語り口をぜひ心ゆくまで味わってください。

寄稿の末尾近くで、「恨(ハン)」に関連して"sympathy"と"empathy"の違いに触れられています。この二つの英単語にまつわる話をつい最近、ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2019年6月、新潮社刊)で読んだばかりだったので、驚きました。金城さんは植民地人民の「恨」について、みかこさんは息子が通うイギリスの公立小学校の「公民教育」について、それぞれ語る中での同じ二つの言葉ですから、全く別の脈絡の中で使われているようでいて、不思議なことにどこか共鳴する意味あいがあることに気づかないわけにはいきません。

みかこさんの本から一部、断片的に引用します(前掲書72〜76ページ、「…」は省略個所)。

−ここから−

 英国の公立学校教育では、…シティズンシップ・エデュケーション(日本語で…「政治教育」「公民教育」「市民教育」…)の導入が義務づけられている。

「試験って、どんな問題が出るの?」と息子に聞いてみると、彼は答えた。
「めっちゃ簡単。…最初の問題が『エンパシーとは何か』だった。…」
 …息子の脇で、配偶者が言った。
「…で、お前、何て答えを書いたんだ?」
「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathyは「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。

 エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。
 両者の違いは…、オックスフォード英英辞典のサイト…によれば、シンパシー(sympathy)は「1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」「2.…」「3.…」と書かれている。一方、エンパシー(empathy)は、「他人の感情や経験などを理解する能力」とシンプルに書かれている。つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。…
 ケンブリッジ英英辞典のサイト…に行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。
 つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは…自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業と言えるかもしれない。
 …ありとあらゆる分断と対立が深刻化している英国で、11歳の子どもたちがエンパシーについて学んでいるというのは特筆に値する。

−ここまで−

 20世紀、帝国主義・植民地主義の時代のシンパシーとエンパシー。21世紀、グローバル資本主義の猛威が吹き荒れる時代のシンパシーとエンパシー。どうやってシンパシーにとどまらないエンパシー=他者を理解する能力をかちえるか。金城さんの彫刻とみかこさんの本から深く学びとりたいと思います。

(編集部 浅井健治)
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2019年09月19日

東電刑事裁判 「国の原子力行政を忖度した判決」

東電刑事裁判で東京地裁が「全員無罪」の不当判決を出しました。長時間にわたる判決要旨読み上げが終わった後、司法記者クラブで検察官役の指定弁護士5人が記者会見。石田省三郎弁護士は「国の原子力行政を忖度した判決」と断じています。

続いて、福島原発刑事訴訟支援団副団長の武藤類子さんと被害者参加代理人の弁護士4人の記者会見が行われ、武藤さんは「福島県民をはじめ原発事故の被害者は誰一人、この判決に納得していない」、海渡雄一弁護士は「司法の歴史に大きな汚点を残す、絶対に取り消されるべき判決だ」と述べました。

両方の記者会見の一部を以下、掲載します(××は聴取不能個所)。

【検察官役指定弁護士 記者会見】

◎石田省三郎弁護士

 ひと言感想的なことを述べると、今回の判決は国の原子力行政を忖度した判決だと言わざるを得ない。
 裁判所は、原子力発電所に絶対的な安全性が求められているわけではないといった趣旨のことを言う。被告人3人の義務として、本当に判決が言ったような形のことをやっていればいいのか、つまり、原子力発電所という、もし事故が起これば今回のように取り返しのつかないことになる施設を管理運営している会社の最高の経営者層として、あのようなことだけで本当にいいのか、と感じた。
 私たちは論告等の中で、情報収集義務を中心に彼らの義務内容を論証したのだが、その点についての裁判所の見解が述べられているとは到底思えない。さらに判決の内容を十分に精査した上で今後の対応を考えていきたい。

Q 推本の長期評価について裁判所は信頼性が低いというようなことを言っているが。

A 私は判決内容を聞いていて、裁判所があそこまで踏み込んだというか、科学的な問題についてあのように介入した判断をしてはたしていいものなのかどうか、ということを感じた。というのは、東京電力の担当者、土木グループの人たちは、あの長期評価が出ていることを前提に何をすればいいかということを考えたのだから、そのことについての評価をすべきであって、長期評価そのものが科学的にどうなのか等についての論争をこの法廷で、あのような踏み込んだ形でしていいのかどうか、については今後いろんな人たちが検討の対象とされると思う。
 原子力発電所の安全性を考える段階で、これは一般の防災のことを考えているのではなくて、取り返しのつかない事故が起こり得る可能性を秘めた原子力発電所の安全性の問題を考える上で、あのような議論をはたして裁判所がしてもいいのかどうか、というところから我々はあらためて問題を考え直さなければいけないと思っている。

Q 控訴するかどうか。

A これからそれは考えなければいけない。判決文の内容も××して被害者参加人の方がたとか検察審査会の決定の内容××どうするのかについて検討をしなければいけない。

Q 公判で、これまで表に出なかった証拠が明らかになった。その意義について。

A われわれも法律実務家だから結果がすべて。どのようなことが公判で明らかになったか、それらがどのように影響していくか、ということはむしろ皆さん方が判断されることではないか。

Q 強制起訴の困難さは。

A 判決文の中にもあったが、刑事責任という場合には当然のことながら合理的な疑いを超えて有罪を立証しなければいけない。その難しさはある。だから我々はそれに精力を注いだつもりではいたが、残念ながらこのような結果になった。

Q 市民の判断に基づく検察審査会の議決を経た強制起訴裁判で無罪判決が相次いでいるが。

A 我々がコメントすべき立場にはない。裁判所から選任をされた以上は、その職務を全うせざるを得ない立場にあるということだ。

Q 山下(和彦・地震センター長)氏がが、調書だけでなく証人尋問されていたら、結果は違ったのではないか。

A それはそうでしょう。証言の内容いかんによってはそう思う。刑事訴訟法321条によって(調書が証拠に)採用されているのだが、裁判所の判断の根底には、反対尋問を経ていない証拠ということであのような判断になったのではないかと思う。しかし、あの調書の内容を精査し、他の証拠等を勘案すれば、本来であればあのような判断にはならなかった。

Q なぜ有罪に持ち込めなかったのか。

A 有罪に持ち込めなかったというより、なぜ裁判所が有罪にしなかったかという問題だと思う。(有罪にできるだけの論証はきちんと)やった。それを先ほど言ったように、裁判所が国の原子力行政をおもんぱかり、絶対的な安全性まで求められていないという、そういう判断ってあり得ない。万が一にも起こってはいけないという具体的な発想があれば、あのような判断にはならない。

Q 民事裁判への影響を考えると、これで終わるというのは考えづらいが。

A そういう意見も踏まえた上で、どういうふうにしていくか考えたい。ただ、我々の選任の効果はきょうまで。控訴するかどうかの権限は我々にあるのだろうが、それ以降はまた別の方がおやりになるのかどうか、分からない、制度的に。

Q 裁判所は、結果回避の方法について「停止」しかないと決めつけていたが。

A ちょっと違和感があった。我々は、5つの方策をとるべきであり、それが終わるまでは停止しろという主張をし、いろんな証拠書類等を出している。ところが、被告らはそういうことすらやっていないというところを全く裁判所は無視してしまっている。あの判決の言い方はかなり違和感があった。

Q 結果回避措置についていつまでと主張していない、という指摘があったが。

A できるまで止めておけばいいということで、永遠に止めろと我々は言っているわけではない。

【福島原発刑事訴訟支援団&被害者代理人弁護士 記者会見】

◎武藤類子・福島原発刑事訴訟支援団副団長

 きょうの判決について残念のひと言に尽きる。あれだけ裁判の中でたくさんの証拠や証言がありながら、それでも罪に問えないのか、という思いだ。
 裁判所は間違った判断をしたと思っている。裁判官は福島の被害に真摯に向き合ったのかどうか。福島の現場検証を棄却したこと自体にすでに誤りがあったのではないかと思う。
 この判決は最も責任をとるべき人の責任をあいまいにして、二度と同じような事故が起きないように社会を変えていくということを阻むものだと思う。
 福島県民をはじめとして原発事故の被害者は誰一人、この判決に納得していないと思う。検察役の指定弁護士の皆さんには本当にお世話になったけれども、さらなるご苦労をおかけするが、即時控訴してくださることを望んでいる。

◎海渡雄一弁護士(被害者代理人)

 告訴から検察審査会、37回の公判を一度も欠席せず全過程を見てきたが、これほどひどい判決が出るとは思いもしなかった。これは司法の歴史に大きな汚点を残す、絶対に取り消されるべき判決だ。
 指定弁護士の先生方には、控訴していただき、控訴審も石田先生をはじめとする指定弁護士団にこの事件を続けてやっていただきたい。我々も被害者代理人として全力でそれを支えていきたい。そして必ずや正義が叶えられた高裁判決をかちとりたい。[以下、判決内容の具体的批判については割愛、別途報告します]

(編集部 浅井健治)
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