2019年10月25日

DSA組織化ガイド:目次とまえがき

以下は、DSA(アメリカ民主主義的社会主義者)発行『メディケア・フォー・オール組織化ガイド』の目次および"まえがき"の拙訳です。MDSウェブサイトにアップされている同『ガイド』第1〜3章と合わせてお読みください。
http://www.mdsweb.jp/doc/translate/transrate06.pdf
http://www.mdsweb.jp/doc/translate/transrate08.pdf

なお、文中〈 〉でくくった個所は原文では赤字で、2017年DSA大会決議へのリンクが貼られています。
https://www.dsausa.org/democratic-left/dsa_priorities_resolution_2017/

また、《 》でくくった個所は原文で太字になっている部分です。

−ここから−

メディケア・フォー・オール組織化ガイド

目次

メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始めよう:DSA組織化ガイド
1 社会主義とメディケア・フォー・オール
2 組織化とリーダーの育成
3 メディケア・フォー・オールの戸別訪問を実行する
4 メディケア・フォー・オールに関する教育イベントを開く
5 市役所に足を運ぶ
6 メディケア・フォー・オールに関する政治的発言を行う
7 あなたのメディケア・フォー・オール・キャンペーンのPRをする
8 あなたのメディケア・フォー・オール・キャンペーンを選挙活動と一体化する
9 メディケア・フォー・オールの市議会決議を採択する
10 メディケア・フォー・オールのよくある質問
11 むすび

メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始めよう:DSA組織化ガイド

この資料集は、メディケア・フォー・オールをめぐって組織化しているアメリカ民主主義的社会主義者の支部のためのもので、こうしたイベントやアクション、戸別訪問を過去1年間自らの支部において組織化してきた全国のDSAメンバーによって作成された。その狙いは、メディケア・フォー・オールが〈国の最優先事項〉である理由を明確にし、組織化とリーダーの育成について考える枠組みを与え、さまざまな政治戦術の「ハウツー」ガイドを提供することにある。私たちは、最良の実践例を見つけ、メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始めようとする支部に最大限役立つガイドを作成しようと試みた。ただし、イベントを組織化する方法は一つではなく、つねに改善の余地があるだろうと考えている。

実際、私たちはこの組織化ガイドがさらに充実し、あなたの市におけるメディケア・フォー・オール支持の市議会決議獲得や共同行動の構築、あなたの州におけるメディケイド拡大の戦略的な闘い、その他DSA支部がすべての人をカバーする医療保険制度をめざして闘うために取ることのできる重要な戦略と戦術に関する記述も盛り込まれていくことを願っている。全国各地の支部からの活動レポートについてはブログを参照してほしい。

キャンペーンをスタートさせる方法は一つではなく、あなたが選ぶアクションは地域の諸条件に大きく左右される。メディケア・フォー・オール・キャンペーンを始める方法をあれこれ考えるには、▽自らのコミュニティで何が起きているか▽お金や人の観点でどんな援助を頼みにできるか▽DSA会員以外で最も大切な支持基盤はどんな人びとか▽どうすれば労働者階級の人びととその諸組織に働きかけることができるか−を見定める必要がある。また、もっと実践的な検討事項もある:州議会または市議会に、メディケア・フォー・オールやメディケイド拡大、有給の病気休暇に賛同することに前向きな議員はいるか。この問題や関連する問題で他にどんな団体が活動しているか。もうすぐ開かれる、あなたが参加できそうな大きな地域のイベントはあるか。

そして何よりも自らに問うてほしい:《この国の非人道的な医療制度から利益を上げているカネまみれの勢力に立ち向かうことのできる大衆運動を築くために、私たちの支部はどうやって、これまで政治に関わってこなかった人びとの心をつかむのか》。私たちの運動は、仲間内ではない人びとと熱心に会話を重ね、その人びとに圧倒的多数のアメリカ人のプラスとなる闘いに参加してもらうことによってのみ、勝利するだろう。

DSAメディケア・フォー・オール運営委員会は、あなたの支部がすべての人をカバーする医療保険制度に向けた闘いに加わるためのツールを開発する手助けをします。ご自由にいつでもご連絡ください:medicareforall@dsausa.org

連帯!

−ここまで−

原文は:
https://medicareforall.dsausa.org/organizing-guide/launching-a-medicare-for-all-campaign

2017年DSA大会決議については週刊MDS第1588号掲載の日南田成志さんレポートで言及されていますので、ご参照を。
http://www.mdsweb.jp/doc/1588/1588_02a.html

メディケア・フォー・オールそのものについて手早く理解するには週刊MDSの次の記事が役に立ちます。
【MfA(メディケア・フォー・オール すべての人への公的医療保険) 米国医療制度を根本から変える サンダースが提案、DSAも支持】
http://www.mdsweb.jp/doc/1582/1582_03n.html

(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 14:01| 報道/活動報告

2019年10月17日

「恨之碑」−人間の尊厳と誇りを刻む

金城実さんが「恨之碑」を制作した当時の記事は、週刊MDSの前身の『統一の旗』時代、ウェブ発足前の号に掲載されています。以下、記事データベースから転載します。

【1999年1月22日 第575号 強制連行の韓国人軍属を弔う 沖縄で“恨之碑”建設の会発足】
 太平洋戦争中に沖縄に強制連行された人々の恨(ハン)を表し、無念の死を遂げた韓国人元軍属(軍で働く労働者)らの霊を弔う記念碑を建設しようという運動が始まった。

◎仲間の霊を弔いたい

 きっかけとなったのは、元軍属・姜仁昌(カン・インチャン)さんと徐正福(ソ・ジョンボク)さんによる一昨年の沖縄訪問。沖縄戦当時、姜さんは慶良間諸島の阿嘉島に、徐さんは宮古島にそれぞれ連行されていた。姜さんらは、「平和と生活をむすぶ会」の協力で阿嘉島を訪れ、同胞十二名の虐殺の跡を確認。その後も「生きている内に仲間の霊を弔いたい」との思いを募らせてきた。これを受けて、昨年十二月十九日、那覇市内で「『太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨(ハン)之碑』建設をすすめる会」の発足式が行われた。
 発足式には、沖縄から碑の制作にあたる彫刻家・金城実さんや弁護士・池宮城紀夫さん、音楽家・海勢頭豊さんらが、本土からは「むすぶ会」の豆多敏紀代表らが参加。被害者が強調する「恨」という言葉をどう受け止めるかの議論が行われた。韓国語の「恨」は日本語の「恨み」とは違い、「遂げられない心の嘆き」ともいうべき意味を表す言葉だ。「沖縄の人々が戦後ずっと持ちつづけている気持ちとも共通するものがある。『もののあわれ』というようなものではないか。これは二十一世紀にむけて両国の間で取り入れていくべき思想だと思う」(海勢頭さん)という認識を共通のものにした。

◎歴史の事実を伝える

 二人の出身地である韓国・慶尚北道からは数千人が沖縄に連行されたといわれている。その人々の記録は公式には何も明らかにされていない。今回の碑の建設は歴史に埋もれていた強制連行被害者の無念の思いを掘り起こす事業でもある。
 慶尚北道での碑の除幕式は八月十五日に予定されている。「すすめる会」はその日に向けて、呼びかけへの賛同や一千万円を目標とした基金への拠出を訴えている。

【1999年8月13号 第603号 人間の尊厳と誇りを刻む 沖縄戦被徴発者恨之碑 「子々孫々への宝物」】
 韓国人元軍属らの霊を弔う記念碑―「太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨(ハン)之碑」がついに完成した。韓国―沖縄―日本本土を結んだ民衆の共同事業に、全国三十都道府県約六百人から六百二十万円の募金が寄せられている。沖縄在住の彫刻家・金城実さんが心血を注ぎ込んだ「恨之碑」は八月十二日、韓国・慶尚北道英陽郡で除幕式を迎える。

 分散会で、元軍属の徐正福(ソ・ジョンボク)さんは「子々孫々に残していく立派な宝物ができた」と碑にかけた思いを語った。「『付近の警備』の名目で宮古島に連行されたが、実際は一番危険な陸軍の軍用品を荷役する揚陸作戦に就いた。五十〜六十機の空襲で船は降沈。日本の船員は全員助かったが、軍夫は浮き袋もなく全滅した。遺骨は見つからなかったが、みなさんの努力で素晴らしい碑ができた」と繰り返す。韓国・太平洋戦争犠牲者遺族会の李煕子(イ・ヒジャ)さんは「長い遺族会の活動の中で、目に見えるものを残してこなかっただけに実現できてうれしい。この碑を発信にして沖縄・日本・韓国の関係が深まってほしい」と呼びかけた。

 開口一番「この仕事に出会い、誇りに思っている」と語ったのは金城さん。「これまでの彫刻を見ると、女性の裸と鳩を描いて『平和の像』というエセ正義が多い。これは戦前の“報国”芸能と同じだ。戦争犠牲者の恨の核心に迫りたいと彫刻に取り組んだ。人間の尊厳と誇りを、この像に吹き込みたい」。目隠しされた青年を処刑する日本兵の醜さをどう表現するのか悩み、韓国に搬入する当日の朝まで制作に従事したという。「戦争の悲惨さや二度とあってはならないとの思いを込めた恨之碑を、沖縄・日本本土・韓国の間で大きく成長させていこう」と訴えた。

 約七か月の建立運動は急速に支援・協力の輪を広げている。運動を担ってきた仲間は「若い人が『私たちもこういうことにお金を出さなくちゃね』と友だちに働きかけ三人分カンパした。戦争動員法や『日の丸・君が代』法案など矢つぎ早の攻撃の中、『今、声を上げなければ』の思いはみんな共通だ。若い人は無理かと思っていたが、そんなことはない」(東京・高畑さん)「当初は反応がなかったが、五月に徐さんの話を聞いてから振り込まれる募金が急速に伸びた。除幕式に向けたタペストリーへの協力はすでに五十人を超えている」(大阪・藤田さん)と取り組みの手応えを発言した。
 新聞や各団体の機関紙などにも掲載され、事務局が知らない人々からも続々と募金が届いている。恨之碑建立を進める会事務局長の豆多さんは「目標の一千万円を達成し、アジアの人々と仲良く生きていく社会を作るために、さらに建立運動を広めよう」とまとめた。

(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 19:05| 報道/活動報告

週刊MDS紙面の金城実さん

以下は、週刊MDSウェブに全記事をアップしていなかった時期の、沖縄の彫刻家・金城実さんが登場する記事をデータベースから転載したものです。

【2010年4月16日 第1129号 防衛省前で抗議行動 基地はどこにもいらない! 普天間基地の無条件返還を 県民大会に連帯行動】
 鳩山政権の新基地建設案を封じ込める闘いは大きな山場を迎えている。
 名護市辺野古で続けられている座り込み行動と連帯して毎月行なわれる防衛省前の抗議行動(主催・辺野古への基地建設を許さない実行委員会)。4月5日には市民ら100人が集まり、「普天間の無条件返還をアメリカに要求せよ」「勝連沖も陸上案も徳之島も許さない」と力のこもったシュプレヒコールが繰り返された。
 翌6日からは首相官邸前で鳩山首相の「最低でも県外」の公約履行を求めてウチナンチュ(沖縄県人)が4日間の座り込み行動に入る。その呼びかけ人の一人、読谷村議の知花昌一さんの発言に大きな拍手が起こった。
 「95年の少女暴行事件など、沖縄の怒りを受けて負担を軽減すると言いながら、基地機能は強化され続けている。今、このチャンスを逃しては基地をなくすことはできない。25日には、読谷村で10万人の県民大会を成功させ沖縄の怒りを突きつける。その前に県内移設案が発表されるのを食い止めるため、座り込みにぜひ参加してほしい」

 同じく呼びかけ人の彫刻家・金城実さんは「皆さんが毎月ここで行動を続けてこられたことに勇気づけられている。新たな県内移設を許すことは、(薩摩の侵攻、廃藩置県、日本返還に次ぐ)4度目の琉球処分。沖縄県民はずっとだまされ捨て石にされてきた。防衛省、よく聞いておけ。いかにおとなしい沖縄人でもこれ以上の不当な弾圧、人権切り捨てに黙ってはいない」と、防衛省に向かって怒りをぶつけた。
100406 005.jpg
 WWF(世界自然保護基金)ジャパンの花輪伸一さんもかけつけた。「4・25県民大会に合わせて、東京でもノー・ベース・オキナワの人文字行動を取り組む」と沖縄の闘いへの連帯を訴えた。

 防衛省に対して、金城さんに続いてSDCC(ジュゴン保護キャンペーンセンター)の代表が要請。「キャンプシュワブ陸上案も、勝連半島沖の埋め立て案も、サンゴや海草を死滅させジュゴンの海を死の海に変える」と普天間基地の即時閉鎖とジュゴン保護区の設置を求めた。

◎ウチナンチュ 官邸前座り込み

 4月6日、金城実さんや知花昌一さんら、ウチナンチュが首相官邸前で座り込みを始めた。
100406 014.jpg
 それぞれが座り込みへの思いを述べ、国会議員などの連帯アピールが続く。その後、金城さんらは首相宛て要請書を携えて内閣府へ。内閣府職員は当初、敷地の外で応対した。「沖縄では米軍司令官でさえ施設の中に迎え入れて抗議や要請を受ける」「恥ずかしくないのか」と抗議。職員は庁舎内に戻り、十数分後、上司が「事前の連絡がなかったので」と言い訳しつつ、庁舎1階の応接室に要請団全員を受け入れた。(詳報次号)
100406 020.jpg

【2010年4月23日 第1130号 沖縄県民をなめるな 首相官邸前・国会前で座り込み】
 基地撤去の沖縄の声を届けようと、彫刻家の金城実さんらウチナンチュ(沖縄県人)6人が呼びかけて4月6日から9日まで首相官邸前と国会前で座り込みが取り組まれた。4日間で延べ千百人が行動を共にした。

 スタートの6日。「ウチナンチュをなめるな」の横断幕を掲げ、発言が続く。
 金城実さんは「今の政府はしかと認識せよ。400年前の薩摩による処分、1871年の廃藩置県という名の処分。返還の時には密約事件。第4回の琉球処分をするつもりなのか。沖縄の人間をなめとる。新しい政権は甘く見たらいかん。沖縄がこれであきらめると思ったら大間違いだ」。読谷村で農業に従事する知花盛泰さんは「51年前、宮森小学校に米軍機が突っ込み、17人が亡くなった。それが沖縄の現実だ。今の案は県内たらい回し。狭い沖縄には基地を作らせる場所はどこにもない。基地は県民を守っていない。アメリカの基地はアメリカに持っていけと訴えたい」。
 山内徳信参院議員は「沖縄の怒りはついに総理官邸の前に結集した。なぜここまでしなければ政府は沖縄の声を聞かないのか。鳩山総理、当時の代表は沖縄県民に約束した。アメリカに持って帰れと交渉すべきだと。官邸ののど元で訴えよう」とアピール。
100406 012.jpg
 最終日の9日は国会前で沖縄上京団を先頭に座り込んだ。
 上京中の伊波洋一宜野湾市長が飛び入りでマイクを握った。「06年に合意したロードマップでは普天間のヘリ37基のうち12基が岩国、残りの25基がグアムに移るはずだった。そもそも海兵隊は沖縄や日本を守る軍隊じゃない。沖縄に海兵隊の基地を作る必要性はどこにもない。撤去しかない」と励ました。

 上京団の宿泊場所を提供した日本山妙法寺の武田隆雄さんは「普天間は沖縄だけの問題ではなく、イラクやアフガンに人殺しに行く基地であり、私たちの問題だ」。イラク戦争の検証を進めるネットワークの志葉玲さんは「今日、鳩山首相に検証委員会設置を求める100人の国会議員の署名を渡した。イラク戦争に果たした沖縄の検証を含めて真実を明らかにさせたい」。参加者が共通に訴えるのは、基地はどこにもいらない、だ。
 4月25日には沖縄で10万人規模の県民大会が計画されている。「本土から大挙して参加しよう」「この日に全国各地で同時に集会を持とう」など連帯の声が相次いだ。沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック、東京沖縄県人会は同日同時刻に社会文化会館で集会を開く。夜は明治公園で人文字集会が計画されている。
 締めくくりは首相官邸前に移動し抗議。読谷村の知花昌一村議が決意を述べた。「辺野古はまだ杭1本も打たせていない。沖縄のどこにも基地は作らせない。体を張って阻止する。島ぐるみの闘いがアメリカではなく日本政府相手に起こる。そうならないために無条件で基地は撤去すべきだ。闘いはこれからだ」

【上記座り込み時の金城実さん発言の詳細 取材メモより】
 沖縄の人は中央の日本政府の動きには敏感だ。知識や情報ではなく、歴史を背負って差別と不当な仕打ちを受けてきて、肌で、匂いで感じている。触覚で、見つめている。
 今の政府はしかと認識をせよ。400年前の薩摩による処分、1871年の廃藩置県という名の第2の処分。返還の時には密約事件。西山記者は一生を棒に振った一方で、佐藤栄作はノーベル平和賞をもらってあの世へ行った。第4回の琉球処分をするつもりなのか。口先だけでかわいそうとか負担軽減とか言う。青い空青い海とかゴーヤチヤンブルーとか、沖縄の人はやさしいとか。恥知らずだ。沖縄の人間をなめとる。新しい政権は甘く見たらいかん。
 次から次に来ますよ。個人参加です。何々組合とか何々党ではなく、一人一人のウチナンチュが、それを受けとめる良心的な人々が、これから来る。もう来ています。私の生まれ故郷のうるま市からも来ている。
 沖縄がこれであきらめると思ったら大間違いだ。そのことをしかと肝に銘じてほしい。

【2013年8月13日 第1145号 韓国併合100年 戦後補償から東アジア共同体へ 8月「日韓市民共同宣言大会」の成功を】

◎靖国合祀を批判

 全交の分野別討議「韓国併合100年 戦後補償から東アジア共同体へ」には、約30人が参加。「韓国併合100年」の今年こそ、日本とアジアの過去・現在・未来の関係を問い直す絶好の機会にしていこうと呼びかけられた。
 海外ゲストとして参加した韓国の太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表の李熙子(イ・ヒジャ)さんは特別報告で「生き別れた父の痕跡だけでも探そうと被害者運動に参加した。父が靖国神社に合祀されていることを知ったのは97年だった。ところが、靖国神社には30年以上前の59年に合祀されていた。日本政府は韓国の遺族には何も知らせていないのに、靖国神社には父の情報を渡していた。こんなことが許されるのか。全く資料が見つからない遺族も多い」と、当事者を無視して進められた靖国合祀を批判した。
 続いて、沖縄・合祀ガッティンナラン訴訟原告の金城実さんが報告した。「沖縄戦で壕を追い出された住民、集団強制死させられた赤ん坊も日本軍の協力者として援護法の対象になった。そして、援護法の対象になったことを理由にその赤ん坊も靖国神社の神として祀られている。靖国神社はそれほどいい加減なところだ。法廷は靖国や国との闘いの場だ」。10月26日の1審判決への支援を訴えた。

◎注目集めた写真展

 討議では、関東での『韓国併合100年写真展』の取り組みが注目された。東京・江東区で取り組んだスタッフは「右翼の宣伝カーが15台も来て妨害したが、1日で100人が参加して成功した。感想もよく、準備過程でも地域の方の多くの協力を得た。大きな一歩を踏み出した」と語った。横浜市からは、「『2人いればできそうだ』と開催を決め、地域の知人友人に呼びかけたところ、財政的支援、当日のスタッフ、宣伝など協力してくれる実行委員が25人も集まった。1週間で230人以上が見に来てくれた」と成功例が報告された。
 イ・ヒジャさんから10月に韓国の遺族が日本全国を回る証言集会の企画の報告があり、それをどう支えていくのか議論された。参加者の一人は「政治を変えるしかない。それには東京だけで取り組んでいてもだめ。遺族の証言集会に地元の国会議員にも来てもらおう」。強制労働・軍人軍属の立法解決案も報告された。地域での取り組みを積み上げ、来年の通常国会への同解決法案提出を目指すこと、8月の「日韓市民共同宣言大会」を成功させ「宣言」への支持を全国に広げることなどを拍手で確認した。

【2010年10月8日 第1152号 「韓国強制併合」100年を考える 沖縄で4団体が集いを開催】
 「日本による『韓国強制併合』百年を考える集い・沖縄」(主催・同実行委員会)が9月25日、那覇市内で開催された。沖縄戦で朝鮮半島から強制連行された軍夫問題に取り組んできた「沖縄恨(ハン)之碑の会」が呼びかけ、一日実行委員会として日韓合同授業研究会沖縄委員会 、「靖国合祀ガッティンナラン!訴訟」原告団、 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の3団体が加わった。

◎「市民共同宣言」を受けて

 司会と運営は、恨之碑の会代表の安里英子さん。「先月、東京やソウルで『日韓市民共同宣言』が採択された。日ごろから沖縄で朝鮮半島との民衆連帯に取り組んでいる団体がこうして一緒に開催までこぎつけたことが大きい」と開催までの経過を報告する。開会の挨拶は、同じく恨之碑の会理事の平良修さん。「なぜ『日韓併合』と言われるのでしょうか。今日の集会名称には『韓国強制併合』と書かれています。すべての表記を『韓国強制併合』と書き改める思想を広げたい」と開催の意義が強調された。
 特別報告として、読谷村議会議員の知花昌一さんが6月22日に村議会で採択された「日本軍『慰安婦』問題の解決をめざす法制定を求める意見書」の取り組みを報告。「私の議員任期も明後日27日まで。最後の仕事として慰安婦決議に取り組んだ。沖縄戦では村内に11か所の慰安所があり、40名以上の慰安婦の方がいた。決議の翌日、大阪の一市民から匿名で抗議文が議会に届けられたが、ぜひこうした運動を県内で広げたい」と力強く語った。

◎東アジアの平和に向けて

 第1部は、復帰の年から38年間沖縄に住む朝鮮近代史研究家で汎民研究会共同代表の金洙變(キム・スソプ)さんが「近代史におけるアジアと朝鮮・日本〜アジアの支配をもくろんだ日本の朝鮮占領〜」と題した講演。金さんは「日本による強制併合という植民地政策による最大の問題は、朝鮮戦争の悲劇をはじめとする旧ソ連とアメリカが行なった南北分断がいまだに続いていること。朝鮮半島はひとつ、東アジアに平和で安定的な未来をつくるために一日も早い平和的統一を」と強調した。
 第2部は、実行委員会構成団体からの報告。「靖国合祀ガッティンナラン!訴訟」原告団の金城実さんは「尖閣問題でまた天皇制という靖国思想のウイルスが全国に広がっている。沖縄はもう犠牲になりたくないので、おとなしくしてほしい」とナショナリズムを煽る日中両政府に苦言を呈した。
 昨年、沖縄は島津藩による侵攻400年だった。日本政府による沖縄への軍事支配は基地問題を見ても変わっていない。「韓国強制併合」は、沖縄の問題でもあることが最後に確認された。

(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 18:59| 報道/活動報告

2019年10月13日

上田電鉄別所線鉄橋が崩落

台風19号の影響で、長野県上田市の北陸新幹線上田駅と「信州の鎌倉」別所温泉とを結ぶ上田電鉄の千曲川鉄橋が崩落してしまいました。
https://www.asahi.com/articles/ASMBF2CGGMBFUOOB005.html

上田電鉄別所線はわが青春の記念碑です。連れ合いの実家が同線「八木沢」駅近くにあります。45年以上前、上野から当時の国鉄信越線夜行急行に乗って軽井沢で夜明けを迎え、上田駅で別所線「丸窓電車」に乗り換えてこの鉄橋を渡り、初めて同家を訪ねたことでした。

別所線沿線には数々の観光スポットがあります。国宝「八角三重塔」の安楽寺、重要文化財「石造多宝塔」の常楽寺、おはぎがおいしい前山寺(ここの三重の塔もすばらしい。私はこちらのほうが好きです)、その近くの志半ばで戦場に散った画学生たちの作品を展示した「無言館」、信濃デッサン館(塩田平を見下ろすすてきな喫茶室がありましたが、今は無期限休館中か)、生島足島神社、中禅寺、龍光院、別所温泉の「石湯」「大湯」「大師湯」、北向観音とその境内の縁結びの木「愛染カツラ」…などなど。

こうした場所を車を使わず訪れるには、必ず別所線の電車に乗って千曲川の鉄橋を越えなければなりません。その鉄橋が無残にも崩れ落ち、復旧の見通しも立たないとは。心の中にとてつもなく大きな穴が開いてしまったようです。

別所温泉地区、安楽寺に向かう一角に、戦前の労農党代議士山本宣治の記念碑が置かれています。『長野県上小地方農民運動史』(「上小(じょうしょう)」は「上田」と「小県(ちいさがた)郡」を合わせたこの地方の呼び名)という本に載っていた記念碑の碑文は、以下の通りです。

−ここから−

山本宣治講演記念碑の再建について

上田市周辺の貧農小作人の組織だった上小農民組合連合会は一九二九年(昭和四年)三月一日、労働農民党の代議士山本宣治を迎えて上田市公会堂で講演会を開きました。当時労働者農民が選出した代議士までが軍部に屈服して「山宣ひとり孤塁を守っていた」時でしたので、不況と戦争による極度の社会不安のなかに生きていた多くの労働者農民がこの講演会に集りました。山宣は革命的な代議士の議会活動について具体的に話しましたが、臨席警官の「中止」によって中途で打ち切られました。しかしこの時は山宣が第五六回帝国議会で極反動の弾圧法「治安維持法」を死刑にまで改悪する「緊急勅令」の「事後承諾案」に対する反対演説の草稿を決死の覚悟で準備していた時でしたので、その講演はこの地方の労働者農民に大きな感動を与えました。山宣はその「事後承諾案」が議会に上程された三月五日の夜、東京神田の旅館で田中軍治内閣の手先に虐殺されました。上田での講演の四日後のことでした。

山宣虐殺は全国勤労者の激しい怒りをまきおこしました。上小農民組合連合会でも直ちに上田市公会堂で山宣追悼会を開き、東京の山宣労農葬に参加して帰ってきたタカクラ・テルの報告を聞きました。その報告もやはり臨席警官の「中止」で打ち切られましたが、上小農民組合連合会はその席上、山宣の一周忌までにその講演記念碑を建てることを満場一致で決定し、責任者を選出しました。こうして山宣の死はこの地方の民主運動に一層大きな影響を与え、労働者農民運動の新しい高まりの重要な原因の一つになりました。

しかし記念碑の建設には非常に大きな困難がありました。費用や材料は同志たちの特別の努力で予定どおり解決できましたが、軍事色一色の当時、建設地の承諾をえられる場所がどこにもなかったからです。最後に別所村のタカクラ・テルの借家の一部に家主の斎藤房雄氏の承諾をえてやっと建設地を決定できました。そして山宣一周忌の一九三〇年(昭和五年)五月一日、多数の警官に取り囲まれながら赤旗を林立させて山本宣治講演記念碑の除幕式を決行しました。碑面には山宣の愛誦句で一生の方針をも示した「人生は短く科学は長い」のラテン語“Vita Brevis Scienta Longa(ヴィタ・ブレビス・スキエンタ・ロンガ)”をきざみました。

一九三三年(昭和八年)長野県全域にわたる「二・四事件」の大弾圧があり、この地方でも多くの労働者農民が逮捕投獄されました。タカクラ・テルも投獄され、山宣記念碑も警察がこなごなに取りこわすよう家主の斎藤房雄氏に命じました。しかしさいわいにも斎藤氏は警察へは碑は完全にこわしたと始末書をだして、碑と台石はひそかに自宅(柏屋別荘旅館)へ運んで庭の一隅に埋め、今日まで保存しました。

今日ここに再建できた山本宣治講演記念碑はこうして造られ、こうしてこわされ、こうして保存されてきたものです。明らかにこの山宣記念碑は東信地方の民主主義運動の歴史の重要な記念碑の役わりをも果たしており、また今日これが再建できた事実は日本民主主義運動の偉大な発展をも具体的に示しています。この記念碑の再建に協力してくださり、さまざまの援助を与えてくださった方方に心からお礼を申しあげます。同時に日本民主主義運動のためにいっそう献身することをここにあらためて誓います。

一九七一年一〇月八日

山本宣治講演記念碑再建実行委員会
撰文 タカクラ・テル
書 山本虎雄

−ここまで−
DSCN6743.jpg
(前山寺・三重塔)

(編集部・浅井健治)
posted by weeklymds at 21:02| 報道/活動報告

2019年10月07日

週刊MDS最新号 金城実さん寄稿を読む

週刊MDS最新号(10月11日付第1595号)8面に彫刻家・金城実さんの寄稿が掲載されています。つねに自らと自らの属する集団(ウチナーンチュであったり芸術家団体であったり)への冷徹な自己批判の眼差しを絶やさない金城さんの姿勢、語り口をぜひ心ゆくまで味わってください。

寄稿の末尾近くで、「恨(ハン)」に関連して"sympathy"と"empathy"の違いに触れられています。この二つの英単語にまつわる話をつい最近、ブレイディみかこ著『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2019年6月、新潮社刊)で読んだばかりだったので、驚きました。金城さんは植民地人民の「恨」について、みかこさんは息子が通うイギリスの公立小学校の「公民教育」について、それぞれ語る中での同じ二つの言葉ですから、全く別の脈絡の中で使われているようでいて、不思議なことにどこか共鳴する意味あいがあることに気づかないわけにはいきません。

みかこさんの本から一部、断片的に引用します(前掲書72〜76ページ、「…」は省略個所)。

−ここから−

 英国の公立学校教育では、…シティズンシップ・エデュケーション(日本語で…「政治教育」「公民教育」「市民教育」…)の導入が義務づけられている。

「試験って、どんな問題が出るの?」と息子に聞いてみると、彼は答えた。
「めっちゃ簡単。…最初の問題が『エンパシーとは何か』だった。…」
 …息子の脇で、配偶者が言った。
「…で、お前、何て答えを書いたんだ?」
「自分で誰かの靴を履いてみること、って書いた」
 自分で誰かの靴を履いてみること、というのは英語の定型表現であり、他人の立場に立ってみるという意味だ。日本語にすれば、empathyは「共感」、「感情移入」または「自己移入」と訳されている言葉だが、確かに、誰かの靴を履いてみるというのはすこぶる的確な表現だ。

 エンパシーと混同されがちな言葉にシンパシーがある。
 両者の違いは…、オックスフォード英英辞典のサイト…によれば、シンパシー(sympathy)は「1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」「2.…」「3.…」と書かれている。一方、エンパシー(empathy)は、「他人の感情や経験などを理解する能力」とシンプルに書かれている。つまり、シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なのだが、エンパシーのほうは「能力」なのである。…
 ケンブリッジ英英辞典のサイト…に行くと、エンパシーの意味は「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」と書かれている。
 つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。だが、エンパシーは…自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業と言えるかもしれない。
 …ありとあらゆる分断と対立が深刻化している英国で、11歳の子どもたちがエンパシーについて学んでいるというのは特筆に値する。

−ここまで−

 20世紀、帝国主義・植民地主義の時代のシンパシーとエンパシー。21世紀、グローバル資本主義の猛威が吹き荒れる時代のシンパシーとエンパシー。どうやってシンパシーにとどまらないエンパシー=他者を理解する能力をかちえるか。金城さんの彫刻とみかこさんの本から深く学びとりたいと思います。

(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 19:39| 報道/活動報告