2018年01月10日

『琉球救国運動 抗日の思想と行動』を読む

正月休みを利用して、後田多敦(しいただ・あつし)著『琉球救国運動 抗日の思想と行動』(2010年10月 出版舎Mugen刊)を読み終えました。とくに「第四章 徴兵忌避と抗日」がおもしろかったです。

明治政府は1872年に公布した徴兵令を沖縄に対しては1898年まで施行することができませんでした。徴兵令実施後の沖縄では、忌避者が続出します。

本書によると、「…指を切断し、鼓膜を傷つけたり、わざと不衛生にして皮膚病を患うなどの自傷行為から…学力検査で無知を装い、あるいは日本語を理解できないふりをするなど…あらゆる手段を用いてなんとか徴兵検査を逃れようとする者」「移民という合法的な方法で徴兵を避ける者、さらには、身を隠し行方をくらまして検査を避け、ひそかに清国に密航する者」が相次ぎました。眼球を針で刺し、あるいは線香で焼いたり、関節を無理やり曲げて痛めたり、樹草の毒汁を体に塗って皮膚炎を起こしたりといった事例もあったとのこと。

徴兵事務視察のため沖縄に派遣された陸軍省軍務局の堀吉彦大尉はこんな報告を書いています(1910年)。「この輩(やから)の徴兵忌避は単に徴兵上の忌避というよりはむしろ日本の政治を忌避するものと見たほうが当たっている」

後田多さんは指摘します。「沖縄の徴兵忌避の特徴は、日本の他の地域と違い…『日本の政治を忌避』するという根本的なところから発生するものであった。そのため、徴兵忌避は単なる個人の問題ではなく、家族や親族、地域社会という社会的な環境のなかで生まれていった。地域の人々は若者を徴兵する徴兵官らに抗議し、あるいは呪詛(じゅそ)し、また若者たちが新兵として入営の見送りでは『悲歌涕泣(ていきゅう)』していた。そのような環境のなかで、徴兵忌避は途絶えることなく、その後も続いた」

多くの徴兵忌避者を出していた本部(もとぶ)村では1910年5月、徴兵検査の際、忌避の疑いのある一人の青年に対する医官の行為に怒った村民が検査場に乱入して徴兵官らに暴行を加え、機器を破壊し、徴兵官らは抜刀し住民を斬りつける事件が起きます。本部村の住民24人が騒擾(そうじょう)罪に問われました。

上記堀大尉は事件について次のように分析しています。「この部落は元来、国家思想に乏しい支那(ママ)崇拝の系統を有する結髪士族頑固連の巣窟と称する地である。とくに若干の巨魁(きょかい)らしき者がいて他の者をそそのかし、なるべく兵役に服させられないよう努めつつあると疑われる。これらの輩がこの機を利用してその無法を逞(たくま)しくし、彼らの非国民的団結を固めようとしたのではないか。(徴兵忌避の激しい本部村桃原〈とうばる〉地区は)徴兵上のみならず納税やその他の行政上でもさまざまな支障を来たすことが多い。当局者は桃原地区の者を生蕃(せいばん=原住民)的人民と称している」

「日本の政治を忌避」する人びとの「非国民的団結」。現在の「オール沖縄」の源流の一つがここにあるのでしょうか。

後田多さんは本書をこう締めくくっています。「冊封体制の一員であった琉球国は…日本に併合され、…米国の統治下におかれ、…『復帰』という形を経て現在は日本に帰属している。東アジアの近隣に目をやれば、香港や台湾など近代のなかで国際的地位がゆれ続けている地域がある。…琉球・沖縄も同様だといっていいだろう。近現代における琉球・沖縄の国際的位置のゆらぎを、日本史の枠組みでとらえることは難しい。琉球救国、抗日運動研究が教えることは、近代東アジアの他地域の歩みや抗日運動との対比の必要性であり、東アジアの近代史の一つとして琉球・沖縄をあらためてとらえ直し、位置づけていくことが必要だということである」

東アジア各地の抗日運動の一環として沖縄の闘いを位置づける。その重要性を本書から学びました。

-----Original Message-----
From: ASAI Kenji
Sent: Monday, December 25, 2017 10:21 PM

前田朗さんがブログや週刊MDSコラム「非国民がやってきた!」で紹介されている後田多敦(しいただ・あつし)さん著『琉球救国運動 抗日の思想と行動』を、ようやく図書館から借りて読み始めています。
【琉球救国運動−−必然としての「抗日」】
http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/11/blog-post_9.html
【非国民がやってきた!(260)土人の時代(11)】
http://www.mdsweb.jp/doc/1484/1484_06m.html

といっても、定価本体3800円、索引を含めて376ページにも及ぶ大著ですから、お正月休みを費やしてもおそらく読みきることは不可能でしょう。

まえがきの一部を抜き書きします。

−ここから−

清国で死んだ救国運動の初期のリーダー幸地朝常(向徳宏)は「生きて日本国の属人となることを願はない、死んで日本国の属鬼となることを願はない。身を廃し首を砕くといえどもまた辞さない」という言葉を残している。救国運動の人々は、その言葉どおり、日本へ組み込まれることを拒否して行動し、琉球国が滅亡した後も「琉球国」の人間として生き、そして死んだ。

この歴史的事実の意味は大きい。沖縄が日本の枠のなかに置かれていることは、自明のことではない。そのことを、彼らは死んだ後も墓標を通して静かに主張し続けている。沖縄に生きる私たちは、彼らが存在した事実とその行動の意味を受け止める必要があるだろう。

−ここまで−

後田多さんは続けて、現在の沖縄人はこの事実を知らなすぎるのではないか、と指摘します。まして日本(ヤマト)の私たちにはこの事実への認識が致命的に欠けていることは疑いないところです。そのことを肝に銘じながら、読み進めます。

(編集部 浅井健治)
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