日本では死語と化した「階級」をタイトルに組み込み、昨年10月と今年1月、相次いで刊行されたブレイディみかこ著『労働者階級の反乱−地べたから見た英国EU離脱』(光文社新書)と橋本健二著『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)。読み比べてみた。(以下「ブレイディ」「橋本」『反乱』『新・日本』と略記)
ところで、「階級」とは何だろう。50年近く前、学生運動に足を踏み入れたころ私が教えられたのは、例えば『経済学辞典』(1965年9月初版、岩波書店)の次のような定義だ。
ーー階級とは、社会の生産体制における人々の生産手段に対する所有関係を通して、生産上占めるそれぞれの地位の相違によって区別される人間集団をいう。…階級は政治的・社会的な体制における人々の地位ではなく、経済制度あるいは生産の社会的体制における地位をさす。生産手段を私有独占するものは、社会の他の部分の労働を占有・搾取することができる。この搾取・被搾取の関係は、まったく生産手段に対する所有・非所有の関係から発生する…(p.52)ーー
これを、『新・日本』の「階級とは、収入や生活程度、そして生活の仕方や意識などの違いによって分け隔てられた、いくつかの種類の人々の集まりのことをいう」(p.11)とする定義と比べると、後者の方が意味するところが広範囲で厳密性に欠ける。『新・日本』もp.57以下で、資本主義社会の階級が生産手段に対する所有・非所有の違いから生まれていること、そこにおける搾取のからくりについて説明してはいる。が、全体の叙述は、生産手段との関係の違いよりは「収入」「生活程度」「生活の仕方」「意識」の違いに力点がおかれ、『経済学辞典』の定義が脳に染み込んでいる私としては物足りなさが残った。
とはいえ、『新・日本』が「…激増している非正規労働者は、雇用が不安定で、賃金も正規労働者には遠く及ばない。…労働者階級が資本主義社会の最下層の階級だったとするならば、非正規労働者は『階級以下』の存在、つまり『アンダークラス』と呼ぶのがふさわしいだろう」(p.77)「正規労働者とアンダークラスは、本来は別々の階級というより、労働者階級の内部の異なる二つのグループである。しかし両者の異質性はあまりに大きく、もはやアンダークラスは階級に準ずる存在になっている…」(p.78注)とし、今日の日本には「格差社会」というような生ぬるい言葉では表し尽くせない「新しい階級社会」が出現したと述べている点は全面的に賛成だ。
2010年、労働者派遣法撤廃を求める厚生労働省要請行動を取材した際、応対する担当官の所属部署の名を見てびっくり仰天した記憶がある。それは「需給調整事業課」という。派遣労働者は、足りなくなればどこからか調達し、余れば即座に廃棄する「需給調整」の対象でしかない。私は群馬県嬬恋(つまごい)村のキャベツを思い出した。取れすぎて余まったらトラクターで踏みつぶす。それと同じように「需給調整」され、「雇用の調整弁」にされているのが、非正規労働者だ。労働者をいつでも廃棄できるモノ扱いする。「階級社会」でもまだ生ぬるい。正規労働者の一段下に雇用不安定・差別待遇・低労働条件・無権利の労働者を置く「現代の身分社会」だ。実際、交際する女性の親から「正社員でない者に嫁にやれない」と言われて結婚が破談になった例もあると聞いた。「身分差別」以外の何ものでもない。(このパラグラフには週刊MDSバックナンバーからの引用が含まれています)
『新・日本』はこうしたアンダークラスの人びとの苦しみに寄り添いながら、その苦しみが固定化し、貧困が世代を超えて連鎖していく危険性に警鐘を鳴らす。次のような記述がある。
−−…長時間営業の外食産業やコンビニエンスストア、安価で良質の日用品が手に入るディスカウントショップ、いつでも欲しいものが自宅まで届けられる流通機構、いつも美しく快適なオフィスビルやショッピングモールなど、現代社会の利便性、快適さの多くが、アンダークラスの低賃金労働によって可能になっている。しかし彼ら・彼女らは、健康状態に不安があり、とくに精神的な問題を抱えやすく、将来の見通しもない。しかもソーシャル・キャピタルの蓄積が乏しく、無防備な状態に置かれている。…決定的な格差の下で、苦しみ続けているのがアンダークラスである。この事実は、重く受け止める必要がある。(pp.113-114)ーー
大いに共感を覚える。けれども残念なのは、彼ら・彼女らの苦しみが彼ら・彼女らの肉声として伝わってこないことだ。著者・橋本は膨大な調査データの詳細な分析を通して、それぞれの階級に属する人びとの人物像を提示する。第5章「女たちの階級社会」では、女性を本人の所属階級、夫の有無と所属階級の組み合わせによって17のグループに分類し、グループごとの生活満足度や性役割分業意識などの違いを考察する。しかし、それはあくまで“類型”化の試み、調査票の集計数をもとに橋本が描いた“スケッチ”にすぎない。
一方、『反乱』には著者ブレイディの身近にいる生身の労働者たちが登場し、彼ら・彼女ら自身の言葉で語る。20年前から英国南部ブライトンの「生粋(きっすい)の労働者階級の街」に暮らすブレイディ。ロンドンのイーストエンド、やはり「労働者階級の街」に生まれ育ったそのお連れ合い。2人の友人6人(男5人、女1人)とのインタビュー(pp.74-120)は『反乱』中の圧巻というべきだろう。「排外主義・移民排斥に走った愚かな連中」と十把一からげにされる彼ら・彼女ら(ただし6人中1人は“EU残留”に投票)の真実の声に耳を傾けてみよう。(名前はいずれも仮名)
◆サイモン(1955年ロンドン東部生まれ)「(“離脱”に投票した理由)誰も俺たちの言うことなんか聞いてやしないときに、俺たちがこの国を変えられるチャンスをもらった。使わずにどうする、と思ったね」「俺たちの言うことを金持ちやエスタブリッシュメントは聞いていない。…あいつらがあまりにも俺らを無視しているから…」「…俺は移民は嫌いじゃないんだよ。…俺は英国人とか移民とかいうより、闘わない労働者が嫌いだ…」「…俺たちが俺たち同士で団結してあいつらと闘わなきゃいけないのに、若い奴らとか移民とかはそんなこと考えてもみない。だからどんどん悪くなっていくんだ…」
◆レイ(1956年ロンドン東部生まれ)「(“離脱”に投票した理由)…どうせ離脱が勝つわけがないんだから、追い上げてキャメロン(首相)とオズボーン(財務相)を慌てさせようと思って入れたクチ。びっくりしたもん、次の日の朝…」「…こういう国の一大事をさ、ふつう俺ら市井の人間が決めるなんてできないだろ。…不満がたまってりゃ、政府に中指突き立ててやりたくなるよ、誰だって…」
◆テリー(1955年ロンドン東部生まれ。“残留”に投票)「『イーストエンド出身の労働党員』ってのは、もはやアイデンティティなんだよ。俺たちワーキングクラスには、保守党の奴らにカウンターを張っていくという任務がある」「(息子さんたちが保守党を支持するようになったら?)…そりゃあもう親子の縁を切る時だ」
◆ジェフ(1956年ロンドン東部生まれ)「…きちっと国が主権さえ取り戻して、国のことは自分たちで決められるようにならないと。EUの官僚たちなんて俺らは選挙で選んでないんだから、知らない奴らにあれこれ決められるのはもうまっぴらだ…」「残留したからって、俺らの未来は明るかったか?…あのままキャメロンとオズボーンにこの国を任せてたら、えらいことになってただろ…」「俺は、国境を閉ざせとか、一国で孤立しろとか言ってるわけじゃない。…国境を開くっていうなら、…どうしてEU国だけなんだよ。それも結局は閉ざしてることに変わりないんじゃないのか、EUの外の世界に向かって?」
◆スティーヴ(1958年ブライトン生まれ)「移民制限が必要だと言ったら、すぐレイシスト呼ばわりされるが、それは同じことじゃないだろう? どこの国だって国境制限している…」「俺は、職場のスーパーだって、半分以上は移民労働者だ。彼らをバカにしたり、変なことを言う英国人には、俺がいつだって相手になってやる…」「…EUは、結局ドイツとか、一部の国だけが得をするようにできている…」「…労働者階級は、間違っていると思ったら『間違っている』と言う。相手が聞かなかったら、首ねっこ掴(つか)んででもこちらを向かせて聞かせる。それでも聞かなければ、キッチンの流し台から何から彼らに投げつけて、聞かなきゃどういうことになるのか思い知らせてやる…」
◆ローラ(1961年ウェールズ生まれ。看護師として38年間勤務)「…実家のあるウェールズは、EUのおかげでもっとひどくなった。わずかに残っていた産業も海外の人件費の安い国に拠点を移したり…ビジネスや人が自由に国の間を動けるようになると、産業がなかったところはもっと産業がなくなって、人々の暮らしは惨めになるのよ。ここらでそれは止めないといけないと切実に思う…」「私は(医療の現場で)外国から来た同僚がいることに関しては何とも思わないし…自分の知らない国の人たちと一緒に仕事をすることは、世界が広がるから大好き。でも、人の命を預かる現場では、せめてきちんと英語が通じないといけないと私は思う」
6人のインタビューを読みながら、私は2015年戦争法阻止闘争のとき叫ばれた「勝手に決めるな」「国民なめんな」「言うこと聞かせる番だ 俺たちが」のコールを思い出していた(ただし「国民」の語には違和感あり。「市民をなめんな」と言うべきか)。障がい者運動にも「私たちぬきに私たちのことを決めるな」というスローガンがある。“残留”に投票したテリーの「“貧困地区出身の労働党員”はもはやアイデンティティ」の言葉は、「オール沖縄」を引っぱる翁長雄志知事の「イデオロギーよりアイデンティティ」の旗印を思い起こさせる。翁長知事は、国連人権理事会で「沖縄の自己決定権はないがしろにされている」と訴えた。「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」という沖縄の人びとの願いと、「言うこと聞かせる番だ 俺たちが」という日本の若者たちの叫びと、「相手が聞かなければ首根っこつかんででもこっちを向かせて聞かせる」という英国労働者の決意とは、間違いなく底部で通じ合っている。
“アイデンティティ”の過度の強調は、アイデンティティを異にする人たちの排除につながるおそれなしとしない。マジョリティによる“自己決定権”の行使が、マイノリティの人びとの“自己決定権”実現を妨げることがあってはならない。だから、ブレイディはこう言う。「…『地に足のついた人々』に『白人』などという人種の定義が“つけられている”のはおかしいのであり、その定義が“つけられる”ことによって…不要な分裂・分断を生むことがあってはならないのだ。…地べたに足をついて暮らしているすべての人間として、…人種も性別も性的指向も関係なく、自分たちに足りないものや不当に奪われているものを勝ち取らねばならない時代が来ているのだ」(p.275)
ブレイディのこの指摘を“甘い”と評する向きもあるかもしれない。「人種も性別も性的指向も関係なく」と言ったって、現に移民労働者と英国人労働者との間に、女性と男性との間に、LGBTとそうでない人びととの間に、大きな格差や利害対立があるではないか。人種・性別・性的指向に基づく差別と排除を見過ごし、その実態に言及することなくEU離脱を「労働者階級の反乱」と持ち上げるなんて、排外主義・移民排斥運動に対する警戒心に欠ける。排外主義批判の弱い『反乱』はあまりお勧めできない、というわけだ。
私はそうは思わない。移民排斥への批判が弱いというが、ブレイディ自身が“移民”だ。差別的なことを言われたり、差別的態度を取られた経験もある(p.5)。移民差別に対する怒りがないはずがない。だが、彼女は自らの活動の力点を排外主義・移民排斥の分析・批判よりももっと別のところに置いているようだ。先ほどの文章の2ページ前にはこうある。「…それまでは気にならなかった他者を人々が急に排外し始めるときには、そういう気分にさせてしまう環境があるのであり、右傾化とポピュリズムの台頭を嘆き、労働者たちを愚民と批判するだけではなく、その現象の要因となっている環境を改善しないことには、それを止めることはできない」(p.273)。排外主義は危険だ、と百回繰り返しても、排外主義はなくならないということなのだろう。
ブレイディはブライトンの貧困地区の“底辺”託児所で保育士として働いた経験を『子どもたちの階級闘争−ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(2017年4月、みすず書房)につづっている。同書中にこんなくだりがあった。
−−いろいろな色を取りそろえる意味は、やはりあるのだ。そしてそれは保育士と子どもたちの関係だけではない。「レイシズムはやめましょう」「人類みな兄弟」とプラカードを掲げていくら叫んでもできることはたかが知れている。社会が本当に変わるということは地べたが変わるということだ。地べたを生きるリアルな人々が日常の中で外国人と出会い、怖れ、触れ合い、衝突し、ハグし合って共生することに慣れていくという、その経験こそが社会を前進させる。それは最小の単位、取るに足らないコミュニティの一つから淡々と始める変革だ。この道に近道はない。(pp.85-86)−−
この文章は、チェコから来た移民の子アンナと地元の英国人の子ケリーの激化する“抗争”について書いた「ふぞろいのカボチャたち」という章の中にある。英国人の子でよくキレるジャックとインド人の子アヌーシュカのやり取りを描いた別の章は、「分裂した英国社会の分析は学者や評論家やジャーナリストに任せておこう。地べたのわたしたちの仕事は、この分断を少しずつ、一ミリずつでも埋めていくことだ」(p.142)と締めくくられている。移民差別・排外主義を克服する保育実践にそれこそ泥まみれで悪戦苦闘してきたブレイディに対して、“排外主義批判が弱い”といった非難を投げつけるのは、あまりに失礼であり、またペダンティック(物知り顔の、学者ぶった、知識をひけらかす)すぎるのではないだろうか。
本ブログのテーマに戻ろう。橋本の『新・日本』とブレイディの『反乱』の読み比べである。つまるところ、研究室から「階級」を見るか、地べたから「階級」を見るか、の違いだろう。そして断然、地べたからの視点に軍配が上がる。研究室に対する地べたの優位性については、『ユーロ危機と欧州福祉レジームの変容』(福原宏幸・中村健吾・柳原剛司編著、2015年8月、明石書店)の中で居神浩(いがみ・こう)神戸国際大学経済学部教授がブレイディの『アナキズム・イン・ザ・UK−壊れた英国とパンク保育士奮闘記』(2013年10月、Pヴァイン)を高く評価しつつ、次のように触れている。
−−研究者は基本的に公表された政策メニューから政策を支える論理は何かを読み解こうとする。それはきわめてオーソドックスな手法であるが、ときにはそうでないやり方―たとえばストリート・レベルの人間・社会観察から大きな示唆を得ることがある。
…ブレイディみかこ氏のエッセイ集はその点で非常に衝撃的であった。それはまったく知らなかった事実の発見というより、それまで不確かでもやもやしていた何かが、生々しいリアリティをもって確かなものに変わった経験を得られたからである。1つひとつのエッセイが実にリアルである…(p.128)−−
ブレイディの『反乱』の結論はこうだ。「労働者階級を民族問題から解放せねばならない。『白人』という枕詞(まくらことば)をつけさせ続けてはいけないのだ。すべての人々を結びつけ、立ち上がらせることができるのは、人種問題ではなく、経済問題だからだ」(p.277)
実際、2017年6月の総選挙でコービン率いる労働党は、雇用創出・医療・教育・住宅・福祉など公共サービスへの支出増大の積極財政を打ち出し、鉄道・郵便の再国有化などをうたったマニフェストを掲げて大躍進。若者たちが労働者階級の街に行き、1軒1軒地域の人びとの家のドアをノックし、地べたの労働者たちと語り合うドブ板活動によって勝利がもたらされた。その経緯についても『反乱』の記述はとても参考になる(pp.50-58、pp.268-271)。
ブレイディは昨年10月の日本の総選挙後、『中央公論』(2018年1月号)に掲載された日英往復書簡「左派は経世済民を語りうるか」の中でも、こう述べている。
−−…日本では「左派はお花畑」っていう表現がよく使われますけど、下部構造のない花は、根から水を吸えないので枯れますよね。経済こそ自由の下部構造なんだと意識する、もっと泥臭い―根を持つ花は当然ながら泥で汚れます―左派が出てこないとこの状況は変わらないと思います。(p.131)−−
ことはやはり冒頭の「階級」の語義に戻ってくるのだろうか。「階級は…経済制度あるいは生産の社会的体制における地位をさす」「搾取・被搾取の関係は…生産手段に対する所有・非所有の関係から発生する」。経済制度あるいは生産の社会的体制の根幹部分から切り離されてきた人びとが、奪われたものを取り戻す。搾取され抑圧され差別され支配されてきた人びとの意思に搾取者・抑圧者・差別者・支配者を従わせる。自らの未来は自らが決める。その闘いへの効き目ある刺激剤を『反乱』は与えてくれる。
2点、付記しておきます。
1つは、ブレイディの視野が英国内だけに収まっていないこと。『反乱』の中でも、欧州全体の反緊縮の闘いを見すえつつ、スーザン・ジョージやケン・ローチ、ジュリアン・アサンジ、ナオミ・クラインらが顧問に就く「Democracy in Europe Movement 2025(欧州に民主主義を運動2025、略称"DiEM25"、https://diem25.org/」を紹介し、EUの民主的改革の方向を示しています。
もう1つ、反緊縮の政策として、「反緊縮=適度の成長」をとるのか、「反緊縮+脱成長」をとるのか、私自身はまだ考えをまとめきれていません。
(編集部 浅井健治)
2018年04月04日
地べたの「階級」、研究室の「階級」
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