2018年11月21日

日産村山工場閉鎖−カルロス・ゴーンの最初の仕事

【「市がからっぽになっちゃう」 工場閉鎖で破壊される地域/ルポ 日産が撤退する街 東京都武蔵村山市/1999年12月31日『週刊MDS』(当時は『統一の旗』)第622号】

<リード>
 五工場の閉鎖、二万一千人削減、取引先メーカーの半減−−。日産自動車が空前の大リストラ計画「リバイバル・プラン」を発表して二か月がたつ。日本を代表する巨大企業の荒療治は、地域にどんな波紋を投げかけているのか。師走の一日、閉鎖対象とされた村山工場のある東京・武蔵村山市を歩いた。(A)
<リードおわり>

 新宿から中央線で三十分、立川でバスに乗り換えてさらに二十分。東京ドームの四十倍の広さという日産村山工場の正門に着いた。

◎客足落ちる飲食店

 工場前の通り沿いにある中華料理店をのぞく。店主は開口一番、「ゴーンさんが発表してからさっぱり」。フランス・ルノー社から日産に送り込まれたカルロス・ゴーン最高執行責任者が大リストラを打ち出したのは、十月十八日のこと。以来、目に見えて客足が落ちているという。
 「前は昼は行列が並んで、待ち切れずに帰る人がいた。夕方になると晩酌用にギョウザのおみやげを買ってくお客も多かった。今は全然」。店主はこの八月、自宅を買ったばかり。ローンがまるまる残っている。「日産の他にも常連さんがいるので何とかやってくしかない」
 何軒か先の酒屋の主人は、“造れば売れた”時代の日産を懐かしんだ。「季節工が三千人からいて、それはすごかった。スカイラインGT−Rがヒットして、二十四時間体制のフル稼働。夏祭りなんていうと、ビールの注文がどっと来た」。日産の業績が低迷し始めると、まず修理の業者がいなくなった。季節工の住んでいたアパートは建設労働者の宿舎に変わり、一部は空き家になっている。

◎「時代が時代だから」

 村山工場が完成したのは一九六二年。当時の『町報』には「プリンス自動車工業誘致に成功!」の見出しで、「本事業は村山町有史以来の大事業。将来永遠に記念されるべき」とある。用地の提供など町民あげて協力し、農業と織物業しかなかった町の産業に“希望の星”が生まれた。
 四年後にプリンスが日産と合併、増産体制は続いた。八〇年代には、東京都市町村部の工業製品出荷額の一割以上が武蔵村山市内で生産されるまでに至る。市の発展と村山工場の活況は軌を一にしていた。その日産が今、街を見捨てようとしている。「閉鎖はまさに青天のへきれき」。市議会議長が日産社長にあてた要請書の言葉が、地元の受けた衝撃の大きさを物語る。
 工場の西隣に日産の家族アパートがある。五棟二百五十世帯が暮らす。ゴミ置き場の掃除をしていた女性と話ができた。座間工場で働いていた夫は同工場の閉鎖(九五年)後、村山に単身赴任。家族は二年前ここに越してきたばかり。「時代が時代だから、どこでも働く場さえあれば。主人の行くところについていくしかありません」と言葉少なだ。村山工場の労働者三千人は二〇〇一年三月までに追浜(神奈川県横須賀市)・栃木両工場に配転となる。応じられなければ辞めるしかない。村山に残れるのはメッキ部門など三百人にすぎない。

◎子どもたちにも影響

 男の子の手をひいた若い母親に聞く。夫の働くフォークリフト部は閉鎖の発表よりも前に売却が決まっていたという。「でも、どこへ行くのか分からない。全然話がないそうです」。子どもは来春小学校に入学する。「うちは卒園したからいいけど、これから幼稚園に入れる家は大変。入園金を払って転勤になれば、また新しいところで払わなくちゃならないし」
 市内北部にあるその「村山いずみ幼稚園」に足を伸ばしてみた。園長の話では、数年前までは園児三百六十人中三十人以上が日産社員の子どもたち、三台の送迎バスのうち一台は日産社宅専用だった。「転勤で退園なさる方が続いて現在は四人。来年の募集で日産からは一人だけでした。私立なので園児が集まらないことには運営できません。少子化に追い打ちがかかり、非常に打撃です。バスを今までより遠くに走らせて園児を集めなければ」と困惑顔だ。
 武蔵村山市は都内二十七市の中でただ一つ、鉄道が通わない街。「市のシンボルだった日産がいなくなれば、悲願の駅の実現がまた遠くなる」と心配する青果店の店主がいた。「お客の半分が日産と出入りの業者の車。ここも閉鎖するしかない」(ガソリンスタンド)「今は影響ないが、問題はこれから。市が空っぽになっちゃうんだから」(コンビニ)。日産撤退への不安は高まるばかりだ。
 問われるのは労働組合の取り組みだろう。工場正門近くの日産自動車労組村山支部に足を向けた。しかし、「すべて本部で対応してますので」とすげない。リストラを「構造改革は避けられない」と是認する労使一体路線に何も期待はできない。

◎ラインを残せ

 もう一つ、JMIU(全日本金属情報機器労組)日産自動車支部がある。村山工場の組合員は今わずか二十七人だが、全金プリンス支部の時代から、日産との合併を契機にした会社・組合一体の組織破壊・暴力支配と闘い続けてきた。書記長補佐の小山盛義さんが応対してくれた。
 職場では、一回目の個人面談が行われている。「栃木や追浜だと絶対に通えない人がいる。村山工場に生産ラインを残せというのが私たちの要求」。その要求に職制層も含めて共感が高まりつつある。車で出勤する人たちが窓を開けてビラを受け取るようになった。「ただ、まだ全体が立ち上がるまでには至っていない。地域の団体への働きかけもこれから」。小山さんは今後の闘いに決意を燃やす。
 工場の南に「立川工業会」の案内板が掲げられた一画がある。古びた鉄工所で声をかけると、「日産はうちみたいな小さい下請けは相手にしないよ」。村山工場の一次下請けは全国百二十四社を数えるが、地元の業者は少ない。鉄工所の突き放したような答えから、日産による下請け選別支配の構造が浮かび上がる。
 夫婦二人だけのクリーニング店の店主は語る。「この商売は資金をつぎ込む商売じゃない。信用が第一。生活と密着して、長年かけてお客をつかんできた。人がいて初めて成り立つ商売さ。それだけに(閉鎖は)ひびく」。人々の暮らしと仕事の成り立ちを引き裂き、“わが亡きあとに洪水は来たれ”とばかりに大リストラに突っ走る日産。その暴走をくい止める地域のつながりが生まれてほしい。そんな思いを胸に、日の傾きかけた武蔵村山の街を後にした。
posted by weeklymds at 16:55| 報道/活動報告