第1回「共同テーブル」大討論集会(1月20日・衆院第2議員会館)でとくに印象に残った竹信三恵子さん、前田朗さんの発言を文字起こししました。社民党を中心にした新たな政治勢力の形成をめざす「共同テーブル」の趣旨にはさまざまな意見があるでしょうが、この集会で交わされた議論は、岸田改憲&「新しい資本主義」に対抗する市民の共同行動の深化拡大に向けて大いに示唆に富むものでした。
共同テーブル:
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◎「共同テーブル」発起人 竹信三恵子さん(ジャーナリスト・和光大学名誉教授)
先ほどから選挙の結果が「意外だった」「がっかりした」というお話があったが、申し訳ないが私は全く普通というか当然だろうと思っている。熱が全く感じられないし、何がいけなかったということは、私は野党共闘をほんとに歓迎したし、共同テーブルでも言っている「命の安全保障」をつくる核がやっと政治的にも出来た、政党をまたいで出来たと感じたので、そのこと自体は非常に評価した。
しかし、一体それが誰のために何をどのようにやるかがほとんど語られないまま、何となく選挙区での共闘で誰を通すかという話だけやっていた。そういうことだ。
今コロナの女性相談会を私も参加してやってきたが、とってもそんな話じゃなくて、それをしない状況だ、はっきり言って。明日のカネがない、明日のコメがない、子どもどうしてくれる、家賃が払えないがどうしたらいいんだ、いつになったら助成金が来るのか、あと1日2日たったらなくなって生きていけない、とか普通の顔をして冷静に女性たちが子ども連れてきたりしている。テントの中で言っている。
そこで、悪いが、安全保障だとかいきなり言っても、大事だが、でもいきなり言っても何のこと?って、私あしたのコメなんですけど、っていうような状況になっているのに、永田町の中ではみんなそういう話ばっかりしていて、しらける、はっきり言って。
こないだ日経新聞か何かで、前回の選挙を女性だけでやった場合は野党圧勝、大幅に勝つ。高齢者だけでやっても勝つ。働き盛りの男性でやったら向こう側が大勝ち、っていう結果を出していて面白いなと思った。これ要するに、今の話の文脈で言うと、女性は再分配とか現物サービス、保育園とかをやってもらわないと困るので、そういう発話のあるところに一応期待をかけているんじゃないか、と考えられて、高齢者ももう現金の収入がなくなるから年金とか老後の再分配に期待をかける。それはそうだ。
じゃぁ働き盛りの男性がどうかと言うと、この人たちにも実は男性のジェンダーバイアスが働いていて、男は稼がないと家族にばかにされる。だから、とにかく俺たちが稼げる産業ってどこにあるんだ、何やってもカネは稼げない。ほんとにそうだと思う。若い人たちに聞けば分かる。すごく頑張ってるけど、みんな若い男性は家族を養うなんてカネは稼げない。かなりよく見える仕事でも結構そうだ、よっぽど目端の利いた人以外は、あと大手企業にくっついている人たち以外は。そういう状況になっている。
ところが、今回のいろんなものを見ていてもせっかく命の安全保障と言っているのに、そういったことについて正面から答えるような政策がちっとも出てこなかったと私は考えている。
例えば再分配するためには財源が必要で、そのために消費税減らすとか言っていたが、消費税をちょこっと減らしたからって大きい目で見たら解決にならないではないか。そうすると当然ながら富裕層からとるとらないという議論が出てくるが、それだけはなくて、そういうものを増やしていくための新しい産業政策、原発とか軍事じゃないような、みんなが雇用があってそこそこは食べられて、そして汚くない、いい意味でのモラルのある産業政策、グリーン・ニューディールとよく言われているものはその一つのパターンだと思うが、そういったものと絡めながら財源とか雇用とか考えていかなきゃいけない時期に来ていて、それを説得力をもって打ち出せれば、ずっとましなことがあったはずだ。
ところが、そういう議論がなぜかもう、とにかく数を増やすんだという方向に、まぁ選挙なんでしょうがないが、そういう方向に行ってしまい、なかなかその基本的な話ができないから有権者も「何か言ってるなぁ」ということだ。
その文脈でさらに言うと、9条ってすごく大事だ。私が共同テーブルに参加したのはこの問題をまじめに、根幹だと言ってくれる人たちがあまりいなかった、ここは比較的それでやると言ってくれてたので、ここで何か言わなきゃいけないんだろうなって思った。9条は何かって言うと、人のためにカネを使え、人の生活のためにカネを使え、軍備にカネを使うな、そういう話だと思う。そういう発話をして、あなたがたもし9条とっていったら代わりにどうやって軍備を抑制するのかっていうことだ。そしたら社会保障や再分配に来ると思うか。こういう話に当然なってくる。
しかし、そういう議論がなかなか出てこなくて「9条守れ」と言ってるだけ。これって言ってみたら、本丸が外堀をどんどん破られていって、私のさっき言った本(『賃金破壊』)も労働権、憲法28条の解釈改憲だと書いているが、9条だけじゃない、解釈改憲は。至るところで換骨奪胎の解釈改憲がされていて、労働権も使えない、何も使えない。コッソリやられている。でもいま私たちが言っていることって、本丸の9条は一生懸命言うけど、外堀がどう埋められてるかっていう議論もないし社会運動もないではないか。だからみんな分かんない、何が起きているんだか。
9条って抽象的に言われても、憲法って抽象的に言われても、それがどれだけ使いでがあってそれがなくなったらどういう目に遭うのかということを生き生きと語れてないし、じゃぁそのためにどういう政策、さっき言った食える産業を起こせとかいったような運動も起きてきていない。それを起こすような活動を明日からでもいいからやり、そのための基本的な草の根ネットワークを地味でも大変でも一からつくっていくということを意識してやっていかないと、選挙で何人通った話をいくらしていても、まぁ当面必要なんだが、大きい目で見たらダメだし、有権者はそれほどアホではないのでわりとそういうことが分かって諦観しているような気がする。
そのような動きを明日から一人一人が、じゃぁ自分とこで何しようか、どうしようか、政治家の方たちも数だけはなくてそういう政策はどういうふうに何をやればいいのか。産業政策がない、貧困大変って言っているわりには。オルタナティブ産業政策がない。そういうようなことをまじめに一緒にいろんな陣営で考えていくということを提案したいと思う。それが命の安全保障であり、真の意味で9条を使い倒すことになる。
◎「共同テーブル」発起人 前田朗さん(東京造形大学名誉教授)
私は反差別とか人権とかいう市民運動には随分関わってきたが、生臭い政治のほうにはあまり関わらずにきた。今回この共同テーブルに加わらせてもらったが、それは出発点としては野党がなくなる危機ということを感じたのが最初の出発点だ。野党と称している党はいっぱいあるが、今や与党に癒着する野党なので「ゆ党」だ。もう野党がなくなるという感じがあるので、これはどうしたことかと思っているときに共同テーブルということで命の安全保障という文章に魅力を感じて、ここに参加させてもらっている。
命の安全保障との関わりで一つだけ問題提起をしようと思ってここに来た。国際人権法のキイワードを今ひとこと言う。たぶん何言ってんだと思われると思う。「人として認められる権利」。一体何言ってんだと思われるかもしれないが、これ国際人権法のキイワードだ。日本の法律家が決して口にしない言葉だ。
例えば去年名古屋入管でスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんが亡くなった。私は殺されたと思っている。うなずいた方がたくさんいらっしゃる。同じように何人もの外国人、移住者たちが殺されていった。あるいは、在日の人びと、とりわけ在日朝鮮人に対する差別と抑圧とヘイトスピーチ。そういう中で、この国は彼らを人として認めているのか、ということを本当に考えなきゃいけない。
あるいは先住民族、アイヌ民族や琉球の人びとがいる。あるいはマイノリティではなくてもこの国の労働者や生活者や子どもたちや女性たち、二級市民として、あるいは二級人間として扱われている。そういう状況はずっと続いてはいるが、この10年、とりわけひどくなってきた。この国の政治は一人一人の人間を押し潰していく。そういう政治なわけだ。赤木ファイルも押し潰されて一人の人間が亡くなった残念な出来事だ。
この「人として認められる権利」、何を当たり前の、と思われるかもしれないが、パソコンやスマホをお持ちの方は「世界人権宣言」を検索してみてほしい。世界人権宣言の第6条に「何人も法の下に人として認められる権利を有する」とはっきりと書かれている。世界人権宣言だ。1948年の文書だ。ヨーロッパ人権条約やアフリカ人権憲章や東南アジア人権宣言にも「人として認められる権利」、はっきりと書いてある。なぜなら世界中各地で人が人として認められてこなかったからだ。それを認めるための権利が国際人権法でははっきりと書かれている。
日本国憲法に、ない。書かれていない。日本国憲法には13条「個人の尊重」とか14条「法の下の平等」とか25条「生存権」とか憲法前文「平和的生存権」、いろんな重要な言葉が書かれているが、その前提になる「人として認められる権利」が書かれていない。日本の法学部で使われている憲法の教科書、私20冊ほどチェックしたが、「人として認められる権利」という言葉は一切出てこない。福島党首は弁護士だが、多分「人として認められる権利」が人権法のキイワードだということはあまり考えてこられなかったんじゃないか。それは当然のことだとは思われるかもしれないが、そういう枠組みで考えてこなかったんじゃないかと思う。
これは本当に基礎の基礎、入門の入門、当たり前のことであるけれども、当たり前であるがゆえに見過ごされていて、この国では実は実現していない。半世紀ほど前に実存主義から構造主義に思想が転換したときにミシェル・フーコーという思想家は「人間は波打ち際の砂のように消えていく」という言葉を言った。この国では、人間はざるからこぼれる水のようにこぼれ落ちてしまって顧みられていないのではないか。ここを出発点にして考え直していく必要がある、という基礎の基礎をお話して私の問題提起とさせていただく。
(編集部 浅井健治)
2022年02月04日
「明日のコメがない」「人として認められる権利」
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