2020年11月30日

沖縄ドローンプロジェクト防衛省交渉 フルバージョンで再録

きのうの神奈川集会から始まった「2020ZENKOスピーキングツアー」。奥間政則さんの報告のポイントの一つが、9月17日に行われた辺野古ドローン規制に関する防衛省交渉でした。同交渉については週刊MDSも取材し、記事にしています。

【辺野古のドローン禁止区域指定を撤回せよ/知る権利、報道の自由を侵すな 沖縄ドローンプロジェクトが防衛省交渉】
http://www.mdsweb.jp/doc/1643/1643_45d.html

ただ、この記事は紙面の都合で、出席国会議員の名前などを割愛した短縮版になっています。以下、フルバージョンを掲載しました。奥間さんの報告と合わせて読んでいただければ、ドローン規制の狙い、矛盾、奥間さんの思いなどがさらによく伝わるのではないかと思います。

−ここから−

【辺野古のドローン禁止区域指定を撤回せよ/沖縄ドローンプロジェクトが防衛省交渉/知る権利、報道の自由を侵すな】

 昨年6月施行の改正ドローン規制法により自衛隊基地27か所が飛行禁止区域に指定されたのに続き、今年8月の防衛省告示で新たに米軍基地15か所が指定され、上空での飛行が原則禁止となった。

 追加指定された施設の一つが、辺野古新基地の埋め立て工事区域をカバーする米軍への提供水域。ドローン飛行には米軍司令官の許可が必要とされるが、許可を得る手続きも、違反すれば科せられる刑事罰の構成要件も不明確だ。

 沖縄ドローンプロジェクト(藤本幸久代表)は「これまで濁り水が漏れだしていることなどをドローンで撮影し、沖縄防衛局を追及してきた。今回の指定でこうした活動が制約される。知る権利、報道の自由の侵害だ」として9月17日、衆院第1議員会館で防衛省交渉をもった。

 交渉には同プロジェクト分析担当責任者の奥間政則さん、沖縄選出の伊波洋一・赤嶺政賢・高良鉄美・屋良朝博各国会議員も参加。1時間半以上にわたって、「知る権利をどう配慮したか」「キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセンについて飛行の同意を得る管理者は誰か」「直ちに刑罰の対象となるレッドゾーンと、警察官の退去命令に従わなければ刑罰の対象となるイエローゾーンとの境界線が不明。明確化せよ」など17項目について見解をただした。

 「米軍がすでに排他的に使用している水域なので指定した」とする防衛省側に対し、「埋め立てが始まる前は漁船も自由に航行できた。工事が始まるからということで制限区域が設けられた」「工事区域では軍事訓練もしていないし、ヘリも飛んでいない」「基地として機能していない実態を踏まえ、指定から外せ」と反論。

 奥間さんは「自分は犯罪者になりたくない。1年以下の懲役、50万円以下の罰金―そこまで犯して趣味で飛ばしているのではない。環境を破壊するような工事を監視するのが目的だ。法を犯さない飛ばし方をするために位置情報を明示してほしい」「これは公共工事。辺野古でも高江でも湯水のごとく税金を使っている。コロナで苦しんでいる人を支援する態勢もとらないで無駄な工事をやる。公共工事に携わってきた自分は怒りでいっぱいだ」と迫った。

 防衛省側は答えに詰まり、最後は「本日は貴重なご意見をいただいたので、中で十分検討させていただく」と言わざるを得なかった。

−ここまで−

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(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 14:15| 報道/活動報告

2020年10月06日

「非国民がやってきた!」×『ジョージ・オーウェル』

コラム「非国民がやってきた!」筆者の前田朗さんご自身をはじめ何人かの方から私の投稿にコメントをいただきました。ありがとうございます。これを機に同コラムをしっかり読んでみようという方が増えれば、編集者冥利に尽きます。

事は植民地主義をめぐる議論に集約されていくのでしょう。前田さんによると、その「植民地主義」が学術用語として確立していない、とのこと。話がややこしくなるのも無理はありませんね。

最近、学術というより生き方という面から植民地主義の根の深さを教えてくれる本に出会いました。岩波新書『ジョージ・オーウェル−「人間らしさ」への讃歌』(川端康雄著)です。

「反ソ・反共」の作家として右派知識人からもてはやされたオーウェルですが、作家生活に入る前の19歳から24歳まで英領インド帝国警察官としてビルマ各地に赴任していました。そこで彼が感じた「植民地統治者の不安」とは…。本書第2章で見事に描き出されています。

しかし、本書で一番胸打たれるのは(といってもまだ3分の2しか読んでいません)、第6章「スペインの経験」です。オーウェルは共和国政府側のPOUM(マルクス主義統一労働者党)民兵隊の一員として内戦を戦い、『カタロニア讃歌』を著します。

スペインとくにバルセロナで彼が入り込んだのは「希望が無気力やシニシズムよりもふつうである社会」でした。オーウェルはその後、自分のシリアスな作品はすべて「直接間接に全体主義に反対し、私が理解するところの民主的社会主義を擁護するために書いた」と述べています。川端さんによると、『カタロニア讃歌』は「社会主義を偽装した専制への反対と、自身が確信する民主的社会主義の擁護というふたつの目的を併せて」書き上げられたそうです(P128〜129)。

植民地主義の克服と民主的社会主義への確信、オーウェルから私たちが学べるものは限りなく深いような気がします。

https://www.iwanami.co.jp/book/b515750.html

(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 16:36| 報道/活動報告

2020年10月04日

「非国民がやってきた!」こんな読み方も

週刊MDSの隔週連載コラム「非国民がやってきた!」(by前田朗東京造形大学教授)、みなさんお読みになっていますか? 現在のシリーズ「私の中の植民地主義」は福沢諭吉批判で比較的読みやすいですが、その前の30回続いた「国民主義の賞味期限」シリーズは難解で閉口したという読者も多いのではないでしょうか。

かく言う私も、編集者でありながら、そうした読者の一人。何しろ第321回(1606号)以降に登場する佐藤嘉幸も廣瀬純もその著書はもちろん名前にも接したことがなく、ドゥルーズやガタリについても前田さんご推察の通り「名前は聞いたことがあっても、その思想はよく知らない」(第322回、1608号)部類に属します。使われている用語も「レーニン的切断」だの「ゲットーからの脱領土化」だの「マイノリティの公理闘争」だのチンプンカンプン。歯が立ちませんでした。

ところが、この「非国民…」、こんな読み方があるんです。こんなふうに読めば、何とか薄ぼんやりとでも論点が見えてくるという読み方が。

それは1回1回ばらばらではなく、“通し”で読むことです。各回ごとに切り抜いてファイルします。1ページに3回分貼り付けるとB4だとはみ出てしまいますから、A3がいいでしょう。そうやって通読すると、個々の用語は相変わらず分かりにくいままですが、この議論の全景が浮かび上がってくるような気がして不思議です。

一例だけ上げます。第320回(1604号)に、高橋哲哉「犠牲のシステム」論の引用があります。「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」

ここで、「もの」が「者」と表記されたり「もの」と表記されたりしていることに注目してください。この違いはどこから来るのか。答えが第330回(1625号)で示されます。「高橋における『犠牲にする者』は、佐藤と廣瀬が言う『マジョリティ』や『市民』に対応…高橋の『犠牲にされるもの』は、佐藤と廣瀬の『マイノリティ』や『土人』に対応」「しかしここに微細な差異がある…高橋においては『犠牲にする者』と『犠牲にされるもの』の関係が問われますが、前者が『者』であるのに後者は『もの』と表現されます。『犠牲にされるもの』は『人間だけではない』からです。『犠牲にされるもの』には土人も動物も含まれるのです」

こうして前田さんは、佐藤・廣瀬による高橋哲哉批判の真髄=「犠牲のシステム」論は「もの」(動物)と「者」(人間)の二項を前提としており、「人間である日本人が、動物である琉球人を眼前にして、人間であることの責任を感じる限りで、その責任に強いられて動物になる」という回路が組み込まれてしまう=に行き着きます。第331回(1627号)で紹介されている「福島や琉球を『犠牲』というタームで語ることは、福島住民や琉球民族の闘いの存在を否認することと同じである」との佐藤・廣瀬の指摘はきわめて重い。

つまり、320回で敷かれた「者」「もの」の表記の違いの伏線が330・331回の高橋批判へと大きく回収されているのです。そして、問題は「私の中の植民地主義」にあるとする現在の連載につながっていきます。このような論理展開のダイナミズムは、各回別々に読んでいては味わえません。ぜひ通しで再読されてみてはいかがでしょうか。

(編集部 浅井健治)
posted by weeklymds at 20:17| 報道/活動報告